庄内地方は明治の初め以来、県下でも著名な博物学者を多数輩出している。それらの中で今もって人々の記憶に新しい方は、動物の斎藤宗雄、植物の村井貞固の両先生であろう。
村井先生が当地方植物界のトップリーダーとして活躍されたのは、昭和の初頭から30年代にわたる20年間余に及ぶ。この間、主として現・鶴岡北高校に勤務し、生徒の教導に当たり、その傍ら広く庄内の山野の植物を調査し、当時斎藤宗雄氏の提唱によって組織されていた「荘内博物学会」の研究録に、毎号数多くの論文を発表し、庄内地方の植物相を明らかにした。さらに植物に関する講演や実地指導を幾度となく繰り返しておられた。
先生の業績は温海嶽、高館山、飛島その他の地の植物相を、地域別にはじめて明らかにした事であり、さらに食用野生植物、植物方言等身近なものも専門的立場で明らかにしている。この間自ら作られた植物標本も膨大な数に上り、そのうち特に貴重なものは県立博物館に納められている。
これらの業績の中で特筆されるのは、県指定天然記念物(昭和31年指定)となっているマルバシャリンバイが、温海町(現・鶴岡市)が北限である事、ムベは飛島が北限であることを明らかにし、さらに春を彩るオオミスミソウ(ツチザクラ)は、他とは異なるとして鶴岡が日本の基準産地として確立された事に貢献した事である。これらの業績は、先生の経歴が近畿、四国にも及び、広い視野を持たれていた事と関係する。
先生は明治18年鶴岡市賀嶋町に生まれ、長じて東京帝国大学農科大学農学実科を卒業され、京都府立農林学校、徳島県立農業学校に勤務され、同県板西農蚕学校長、板西高等実業女学校長となり、昭和6年退職された。その後鶴岡に帰り、昭和14年より31年まで、主として今の鶴岡北高等学校に勤務されていた。こうした経緯が、庄内の植物を日本的な広い視野から捉えておられた、ひとつの力となっていたものと思われる。
先生のエピソードのひとつに庄内柿の育ての親、酒井調良翁が東京帝国大学の原博士を訪ね、「平たねなし」の名称をいただいた明治43年の秋に、同時大学に学んでおられた先生も呼び出されて、立ち会っておられたという。庄内弁の酒井翁の通訳的な役割をもになわれたのではないかと推測されている。
昭和37年、77歳の高齢をもって惜しまれながら永眠した。先生の業績は植物研究を志す人々にとって今になってなお重要な資料として活用されており、温厚にして謹厳な人柄は、多くの人々の胸の中に、深くとどめられているものである。
植物学者。明治18年6月15日鶴岡に生まれ、荘内中学、東京帝大農科大学農学実科を卒業。京都府立農林学校、徳島県立農業学校各教諭を歴任し、昭和4年徳島県立板西農蚕学校長。2年後、退職し帰郷した。荘内博物学会の中核的存在で活躍し、14年鶴岡高女の教授嘱託として招かれ、31年まで鶴岡北高に在職。植物に造詣が深く、「温海岳植物」「荘内の海岸植物」など多くの研究論文を発表しマルバシャリンバイ、ムベの分布北限を明らかにした。昭和37年12月1日77歳で死去した。