鮭の遡上の絶えた日向川に、鮭をよみがえさせることに努めた1人の男がいた。その名は西荒瀬村(現・酒田市)の大場馬治である。
元来、日向川は鮭の漁が盛んであって、すでに正保3(1646)年に日向川に沿う小湊村、下藤塚村、上藤塚村、宮海村、門田村(旧西荒瀬村の内)は、日向川での鮭漁による鮭役銀を納めており、延享3(1746)年にも小湊村、能登興屋村、宮海村などが川つくり役鮭運上金を上納している。
鳥海山に源を発する日向川は、飽海郡の平野を西流し、昔は上市神新田村付近で大きく南に流れを変え、小湊村から日本海に注いでいた。そのために、日向川下流は度々の洪水に悩まされていた。
日向川の洪水を防ぐために、遊佐郷の大庄屋・今野茂作等が上市神新田村下より直接日本海に流れる新川工事に着手し、文久3(1862)年に日向川新川が完成した。この結果、洪水の害は減少し、旧流路は100町余の田畑に変わり、茂作新田と称されたが、川の環境の変化によって、鮭の上らない川となった。
山形県では、明治26年の「河川漁業取締規則」によって鮭漁の制限、保護などを行うようになり、明治30年ごろより鮭の人工孵(ふ)化事業が進められ、日向川でも大場馬治が明治42年に人口孵化事業に着手している。
大場馬治の父の与吉は、天保11年生まれ。蕨岡村(現・遊佐町)出身であるが、奇しくも日向川新川掘割の時、人夫頭の役割で、この工事に参加しており、のちに茂作新田の田畑を買い求め、宮海村に移住している。
馬治は明治42年に県水産技師松柏氏の指導で、西遊佐村茂り松の湧水を利用して、人工孵化場を設置、西荒瀬茂り松孵化場と称し最上川水系より鮭の稚魚を購入して、初年度に1万8000匹、2年目に5万匹、3年目に9万匹の稚魚を放流。大正2年には日向川で数百匹の成魚を得ることに成功した。
大正元年に、馬治は同業者47人の代表者となり、人工孵化場の認可を受け、西荒瀬人工孵化場と称した。同8年孵化場を増設して、西荒瀬鮭漁業生産組合となり、初代組合長理事は馬治であった。その年の稚魚放流は100万匹に達した。昭和33年には日向川水系の5つの孵化場が統合して、日向川鮭漁業生産組合となっている。
馬治のまいた種は、幾多の変遷がありながらも、戦後の昭和26年に1060匹、同62年に5040匹の鮭の漁獲という実を結んでいる。
明治末から昭和にかけて日向川での鮭の人工孵化事業で活躍、大雪の日も風の日も孵化場に通ったといわれる。明治3年1月7日、西荒瀬村大字宮海字林内で与吉・鶴乃夫妻の間に生まれる。農業と地域の土木建築業を行う。土木建築業は昭和41年に大場建設株式会社へ発展した。昭和25年5月12日死去した。