羽柴雄輔は、嘉永4(1851)年6月22日、医師・羽柴養倫の子として飽海郡松山町(現・酒田市)に生まれた。別名を久明・良策といい、号を千瓢庵猿面と称した。彼は、はじめ藩士の阿部灌策や、海保弁之助のもとで漢学を修め、のち藩校・里仁館の教師となった。その後、酒田、鶴岡の伝習学校を修了して、明治11~12年ごろから成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤めた。同39(1906)年11月からは、東京帝国大学史料編纂掛となり、晩年は慶応義塾大学図書館に勤務した。
羽柴雄輔は、歴史学、考古学、民俗学、人類学に造詣が深く、それらの分野についての論文や著述が多い。
彼は17歳の時に庄内藩兵として戊辰戦争に参加しており、この戦争で庄内藩がとった行動の正当性を主張し、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文「東北人謬見考評論」がある。
考古学については、松山藩の家老で博識であった松森胤保の影響を受けており、松森が書いた「弄石餘談」には、羽柴との交流を示す部分がしばしば出てくる。明治14年9月の天皇御巡幸に際して、清川行在所に当地から出土した石器や土器類を展示したらしく、羽柴らがその陳列の手伝いをしている。羽柴が松森胤保にあてた書簡の中に、文部大書記官浜尾新がこの展示品を見て感心していることや、アメリカ人のE・モースが大森貝塚を発掘して、そこから出てきた人骨並びに器物などから、モースが日本人の祖先は食人人種に相違ないと唱えたことについて反駁している内容のものもある。
明治17(1884)年、東京に「人類学会」が組織されると、羽柴は同19年これに入会した。
明治23(1890)年11月2日、羽柴は郷里に「奥羽人類学会」を創設し、庄内地方や東北近県の同好者に入会を呼びかけた。そして同会初代会長に松森胤保を迎えた。「奥羽人類学会々則」第1条には、「汎ク人類学的研究ヲ為シテ東京人類学会ノ悌弟ト成リ、日本人類学ノ進歩ヲ計ルニアリ」とあり、日本人類学の発展に寄与することを会の目的としていた。
「奥羽人類学会」は次第に発展を遂げ、庄内藩出身の犬塚又兵が明治22年に福島で主宰した「古器物研究会」とともに、東北地方における考古学の中心的位置を占めるようになった。また、中央における学界のエキスパートである鳥居龍蔵、坪井正五郎、白井光太郎らとの交流も行われていた。「奥羽人類学会」は、明治34年2月に解散するまで、実に98回の会合を持った。
羽柴雄輔は、彼の研究成果を「東京人類学会雑誌」や、「東京人類学会報告」などに発表しており、その数は30編余りに及んでいる。
酒田市の本間美術館には、羽柴雄輔の蔵書数十冊が「千瓢庵集書」として保存されている。また慶應義塾大学には「古物類集」「荘内古事抄総目録」「荘内人古文書目録」「摘草籠」「目覚まし時計」など、多くの著述書が所蔵されている。同大学には、羽柴雄輔が明治27年に筆写したとみられる「飛嶋図面」一巻が所蔵されている。この「飛嶋図面」一巻の原画は、島役人であった画家の佐藤梅宇によって天保11(1840)年に描かれたものであり、羽柴が、この原画の所有者であった鶴岡の相田良翰からこれを借り受けて筆写したとされているが、いずれにしても絵そのものはすばらしい出来栄えである。この「飛嶋図画」と同様のものが、鶴岡の致道博物館にも所蔵されている。同図画は、近世における飛島の習俗を知る上で貴重な資料である。
羽柴雄輔は、大正4年4月より同9年3月までの5年間、松山藩史料42巻を編集した。
彼は慶應義塾大学図書館在職中の大正10(1921)年12月5日、70歳で没した。
史料研究家。松山町生まれ。漢学を学び藩校里仁館の教師。酒田鶴岡の伝習学校を修了して小学校の先生になった。また博物学、人類学を研究、明治23年に松森胤保を会長に奥羽人類学会を組織、東北でも屈指の考古学研究の基礎を確立した。東京帝大史料編纂掛、慶応義塾図書館に勤務。その間に松山藩史料42巻を編集、考古学に関する研究の成果を「東京人類学会雑誌」などに発表している。大正10年12月5日、70歳で死去した。