藤沢周平さんの作品に『義民が駆ける』というのがあります。これは荘内藩と川越藩と越後長岡藩の「三方国替」という事件をもとにして書かれた史伝小説の1つです。この事件は私たち鶴岡の人間にとっては歴史的大事件なのですが、新座市の方はご存知ない方が多いのではないでしょうか。新座市は、川越藩の宿場の町でしたので、皆さまのご先祖には関わりがあったかも知れませんね。この事件について、ざっと説明します。
天保11年、幕府から荘内藩14万石を長岡に、長岡藩を川越に、川越15万石松平斉典を荘内に転封せよという命が下りました。長岡は7万石、荘内は半分に減封される、ということで衝撃的な命令でした。実は、荘内は表向きは14万石でしたが、新田開発等で実質は18万石とも、20万石ともいわれ、比較的裕福だと噂されていました。実際は、荘内藩も他藩同様、借財を抱えていて苦しい財政事情はあったのですが、天保の大飢饉の時も、東北地方では唯一餓死者を出さなかったこと、また酒田港のにぎわい等の風聞からか、非常に豊かな国と見られていたらしく、時の荘内藩主・酒井忠器(さかい・ただかた)には「神田大黒」というあだ名が付いていたそうです。酒井家の下屋敷が神田にありましたので「神田大黒」と、江戸の人は呼んだということです。折りしも天保の改革の立役者である水野忠邦が荘内藩士を憎んでいたとか、松平公が財政難を克服するため、しばしば前将軍・家斉に転封を願ったとか、長岡藩に港取り締まりの不行き届きがあったとか、色々理由があったようですが、一番ワリを食うのが荘内藩で、長岡に行きたくなかったわけです。このとき、領内の農民が転封を阻止するため、大々的な一揆、というか、嘆願運動を起こし、最終的には三方国替は取り止めになったという事件です。
この事件は一般的に幕末になって幕府の力が弱まり、一度出された命令が覆ったことでその権威が衰えてきつつあることを示した1つの例だと説明されますが、こうした歴史の流れの中で川越藩の人々、荘内藩の人々の心理や行動を想像し、小説の中で再現する面白さを作者である藤沢さんは味わわれたのではないでしょうか。実際、鶴岡の城下にも、川越のご城下にも、またお江戸の市中においても両藩のスパイ合戦があり、江戸の人々の興味や関心の中、水野老中が敗れたという話は本当に面白いですね。その、他人ごととして眺めたら、下手なお芝居よりもずっとドラマチックです。この『義民が駆ける』は、そうした歴史上の事実を丹念に描きながらも、登場する農民の心理描写に中心を置き、独特の史伝小説となっております。
このように、今から160年前には敵同士でありました川越と鶴岡ではありますが、今日、藤沢周平さんの仲立ちによって、市民同士が仲良くなれたら素晴らしいことだと思いませんか。
「海坂藩について」へ続く
(新座市立栄公民館講演より)