さて、「海坂藩」にはまだまだ老人力あふれる主人公が登場する。初期の作品では『ただ一撃』の刈谷範兵衛があげられる。範兵衛は清左衛門より10歳くらい上だろうか。隠居して釣りや盆栽を楽しむ、ごく平凡な年寄りである。やはり妻に先立たれ、嫁に面倒を見られている。清左衛門のように小料理屋に通ったりすることもなく、鼻水なども流れる。少々惚けがかったような男であるが、この人のパワーが炸裂するさまが凄い。藩命によって、ではあるが、範兵衛が見せた最後の一撃が、この短編の魅力である。全てを打ち砕く一撃で敵をも殺したが、範兵衛のただ一人の理解者であった嫁の命も奪った。自分自身のエネルギーをも全て奪われ、この後範兵衛は急速に惚ける。
範兵衛の場合は老人力が悲劇的な結末をもたらすが、このような老人は藤沢作品に結構多い。市井ものにも登場する。『ただ一撃』は、そういう意味でも面白い。『三屋清左衛門』に至るまでの一連の作品の原型を成しているとも言えよう。
『闇討ち』という作品には、一段とパワーのある老人が登場する。五十半ばを過ぎ、半白の髪としわの深い、悪相にみえる男3人組である。もちろん、隠居の身分であるが、若い頃城下の雲弘流道場の三羽烏といわれた剣豪だった。3人は禄高も150石前後の似たような家柄だったが、その中の1人清成権兵衛は、勤めをしくじって、3分の1に家禄を減らされ、身分も御供頭から普請組勤めに落とされていた。隠居したものの、家族には肩身狭く暮らしている。借金を残して事業を息子に渡した父親のようなものである。彼は何とか功を立て、少しでも禄を戻したいと願い続けている。