このように海坂藩には家庭が崩壊し、それによって苦難を強いられる男女が多くの登場するのである。勿論、平凡な日常からはドラマは生まれにくいという小説創作上の理由もあるだろう。しかし、それだけでは説明しがたいほど、家庭崩壊の話が多い。藩の命によって破壊される家庭も、武家ものでは当然のように多く登場する。『蝉しぐれ』の文四郎や『暗殺の年輪』の馨之介はそれにあたる。特に藤沢さんの初期の作品は破滅的な結末を迎えるストーリーが主流で、主人公が死ぬ例もある。しかし、藤沢さん自身「転機の作品」にあたると述べている『用心棒日月抄』の主人公・青江又八郎も、父母は既になく、祖母に育てられている。何かしら翳りのある青年なのである。その又八郎の妻となる由亀の父親は又八郎に斬られる、という悲劇からこの物語は始まっているわけだから、言ってみれば2つの家が壊れたところから又八郎の苦難の道のりが続くのである。
他にも、荘内藩の実話をもとに作られた『又蔵の火』があげられる。主人公の土屋又蔵こと、虎松は兄の万次郎と2人、幼いときに実母と別れて土屋家に引き取られ育てられた。実母は、父の土屋久右衛門が隠居した後、妾になった人である。土屋久右衛門は家族運の悪い人で、妻は子供を1人産むと亡くなり、その一人息子も22歳の若さで病死している。土屋家の跡継ぎをなくした久右衛門は養子をもらい、嫁をとらせて、自身は隠居する。その後に生まれたのが万次郎、虎松兄弟である。複雑な家庭、人間関係が浮かんでこよう。万次郎、虎松の2人は血のつながらない兄夫婦に大切に養育され、剣や学問も習うのだが青年期に入った万次郎がぐれるのである。徒党を組んで乱闘をしたり、飲み、打ち、買うの三拍子そろった放蕩を始め、困った土屋家では万次郎を座敷牢に閉じ込めた。弟の虎松の眼を通して、この乱行に走る青年の姿を作者はこう描いている。土屋家の面汚しだと人々に罵られる万次郎。「だが虎松は、人々がいう極道者がその顔の後に貼りついていた、もの憂い悲しみの表情を幾度か見ている。」