兄を敬い、弟を慈しむ。兄弟として育った者には自然な感情であろう。しかし、一方では「兄弟は他人の始まり」ともいわれ、骨肉の争いほど凄惨な様相を呈するものがないともいわれるように、兄弟は常に仲睦まじいものとは限らない。だからこそ、「悌」という道徳の教えが生まれたのであろう。
藤沢周平さんの作品には、骨肉の争い、酷い兄弟の闘いを描いたものは少ない。ただ、『一茶』という史伝小説には、弟と財産争いをし、冷酷に半分をもぎ取る一茶が登場する。その他ではほとんど見当たらない。兄弟姉妹が敵同士となり、血を流し合うような設定を藤沢さんは選ばなかった、ともいえる。
一方で、兄や弟、妹を思う主人公の例はいくつも挙げられる。強い絆でつながっている肉親を思い、心を痛めたり、実際に我が身を兄弟のために捨てたりする主人公が登場する。
兄を思う弟を描いた作品の代表は『又蔵の火』であろう。又蔵こと、土屋虎松が、兄の土屋万次郎の仇討ちをした実話をもとに書かれたこの作品は、直木賞受賞作である『暗殺の年輪』とほぼ同時期に書かれた作品である。文化8年、鍛冶町(現・鶴岡市陽光町)の総穏寺境内で、荘内藩士である土屋丑蔵を、兄の仇として勝負を申し入れ、討ち合いの末、差し違えて両者とも死んだというこの事件は、鶴岡の御城下を震撼させ、太平の世の眠りを覚ましたことであまりにも有名だ。