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郷土の先人・先覚8

秋山 好市

秋山好市氏の写真

秋山さんは明治24年生まれで私より29歳も年長者だったが、昭和24年ごろから耕うん機の研究を通して大変親しく交際して頂いた。それは年齢差を越えての、俗にいうウマが合う仲でもあった。

秋山さんの経歴その他は大宝館に詳しく掲示されてあるので省略させて頂き、ここでは主として秋山さんのお人柄について述べてみたい。

秋山さんはかなり激しい気性と人一倍の負けん気の強い方で、こと発明に関してはけた外れの情熱を持っておられた。当時は耕うん機の揺籃(ようらん)時代で、クランク式、ロータリー式、スクリュー式が三つ巴の競争をしていたが、その中では秋山さんのクランク式が一頭地を抜いていた。というのは車輪型のロータリー式では湿田の走行が困難なばかりでなく、普通爪に堆肥が巻きつき耕うん不能となることもしばしばだったからである。

その点秋山式はクローラ型(無限軌道)のため、湿田内をすいすいと走行し、耕うん刀も特殊な軌跡で打ち込まれるため、小馬力で15センチ位の深耕もできる素晴らしい性能をもち、他のメーカーの注目を浴びていた。

秋山さんのひたむきな研究ぶりの一端を紹介すると、試作機の連続耐久試験のため、田のわきに天幕を張り、3日間だったか泊まり込みの調査をされたことがある。それを見てさすがは秋山さんだと感銘を深くしたのを覚えている。それだけに非公開の試作機を他のメーカーの技術者が盗み見たりすると、かんかんになって怒り出すことも少なくなかった。

その頃、15台位の大型バスを連ねて秋山式による稲作田の視察ツアーを毎年実施されたが、これは庄内地方の秋の風物詩でもあった。

秋山さんは仕事の面では大変厳しく、社員たちを叱咤激励することもあったが、仕事以外では大変優しく奥床しい一面をもっておられた。人には滅多に洩らさないが、私にはいろんなことを話して下さった中に、湯殿山登山口の険しい急坂に鉄梯子を設置し、多くの参詣者に非常な便宜を与えられたことなどがある。いずれも秋山さんの隠れた行為であった。また斎藤外市氏の高弟であり、「発明王・斎藤外市」という立派な本は、秋山さんが自費で出版されたものである。

この秋山さんにひそかな楽しみがあった。それは鮎釣りで、仕掛けなども例の研究心から相当凝ったものにし、釣果は上々だったようだ。夏になると拙宅まで届けて頂き、恐縮したものである。

今、日本の農業はすっかり様変わりし、機械化貧乏などと非難されがちだが、農民を田起しの重労働から開放し、さらに農村の余剰労力を第2次、3次産業に送り出し、現在の日本の繁栄をもたらしたことを忘れてはなるまい。その先駆者が秋山好市氏である。

(筆者・土屋功位 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

秋山 好市 (あきやま・こういち)

農機具の発明改良に努め数々の特許をとり、庄内農業機械化へ貢献した。

明治24年紙漉(かみすき)町=現・大東町=に生まれ、生家が貧しく、小学3年を終えると町内の押切釣具店に年期奉公に入った。努力家で創意工夫に優れ、同じ釣針製作でも大人の3倍近い能率を示した。その努力が発明家の斎藤外市に認められ助手となる。

その後、独立して釣具店を経営。8台の織機を自作して大山駅前に工場を設ける。また、下肴町=現・本町一丁目=に秋山商会を設立。籾摺機の販売普及に尽力しながら農機具の発明改良に努め、大宝寺に工場を設立。八千代式大豆粉砕機、秋山式籾摺機、複胴式脱穀機など次々に発明。

全国動力耕耘機比較試験で1位となる。農機具発達への貢献が認められ44年に藍綬褒章を受章した。

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