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郷土の先人・先覚14

佐藤 寒山

佐藤寒山氏の写真

佐藤貫一氏号は寒山、刀剣博士、剣道教士7段である。明治40年鶴岡市大海町(現・新海町)に生まれた。父君久平氏は酒田・本間家勤め、母君は長年第四小学校に奉職、大柄な女丈夫的風格の中に温情あふれる先生として有名だった。寒山先生は母君の系統を引かれたのか頑丈な体格だった。幼いころから学業優秀、特に剣道に出色、中学時代初段、国学院大学に進んで5段練士、主将。そして最後は7段教士であった。

刀剣における寒山先生はまた有名であった。刀剣になじんだそもそもは、本間家の刀と聞くが、東京に出られてからは神津伯という大先生につかれ、鑑賞眼を養い研鑽をつまれた。

酒田出身の本間薫山先生は古刀において、寒山先生は新刀の研究において、このお2人は近世刀剣界の最高峰である。寒山先生の著には「虎徹大観」「康継大観」「国広大観」「荘内金工名作集」等著書もまた数え切れない出版数である。

こよなく酒を愛し、飲めば筆を揮って落書、この書がすぐれて面白いのである。一見豪放磊落に見えて極めて人情濃やかな人、そのへんに彼の魅力があった。刀剣博物館副館長時代全国からの寒山ファン正に列をなす状態。刀剣界にはいろいろな人間がいた。それらの人を清濁併せ呑む度量の人。また寒山先生は稀にみる愛郷心の篤い人だった。郷里のこととなれば何にでも力をかす。我が致道博物館の設立を心から喜ばれ、設立当初からその後の運営まで大きなご援助とご指導を賜った。

刀剣界のご功績は枚挙にいとまないが、寒山先生が最後のファイトを燃やして尽くされたのが、刀剣保存協会52年のたたら炉復元の大事業であった。出雲の山奥で52年11月ここで火入れ式が行われた。私も参列したがその時の寒山先生は、その前からお体の調子が悪かったらしいが、もう疲れ果てたお姿であった。

お別れする朝、寒山先生はホテルの窓辺に立って「忠明さん… 日本海ですよ…」と。この海の果てに我が古里が… 望郷の御心を察して胸のあつくなる思いでお別れした。この時が結局今世のお別れだった。この年の12月人間国宝宮入昭平刀直が急逝。この葬儀に無理をしてゆかれ、帰られてから入院ということになられたのだったと思う。そして翌53年2月に亡くなられた。

私は寒山先生ほどの胆識ある高風練達の士は他にいないと思う。70歳、惜しい人物であった。

国学院卒業後秋田中学、東京都立四中、都立一中の教諭から国宝調査室嘱託。退官後(財)日本美術刀剣保存協会事務局長、後常務、刀剣博物館副館長。昭和35年「御紋康継」の研究で文学博士。剣道教士7段。

(筆者・酒井忠明 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤 寒山 (さとう・かんざん)

現代日本における刀剣界の第一人者で、酒田の本間順治博士と共に広く知られた人。

明治40年、大海町に生まれ名は貫一、「寒山」は号。鶴中、国学院大を卒業し、中学校の教師を勤めながら、好きな刀剣研究の道に入り、10年後には文部省国宝調査室の嘱託を兼ね、道を極めた。戦後、連合軍総司令部と折衝を重ね、美術刀剣保存許可の端緒をつくり、その後、刀剣博物館副館長を勤め、刀和会を発足。愛刀家の育成指導をした。

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