酒田で発行していた雑誌「木鐸(ぼくたく)」の明治43年2月号に知也の「鉄道問題所感」という文が載っている。この文は雑誌「日本及日本人」所蔵の分を酒田人を覚醒するため知也が投稿したもの。
当時酒田人は荒木幸吉のひきいる商工談話会を中心に鉄道誘致にやっきになっていた。時の政府は事実上政友会内閣で、政友会総裁であった原敬内務大臣が実権を握っていた。酒田政界は有恒会と政友会系に分かれていたが、有恒会系が多かった。そこで政府は鉄道誘致を餌に談話会員約1000人を一挙に政友会に入党させた。
知也はこれを憤慨し、かつて東北は蝦夷の時代から独特の文化を誇り、阿部貞任、清原氏、平泉の藤原氏など独立の気概を保っていた。近年では明治元年の戊辰戦争で奥羽同盟を結び西南の薩長に対抗した。この時、『庄内人数はアナーワランケー(みの)着たとてナアー戦ささせると鬼じゃもの、芋(薩摩)や牡丹餅(長州萩)一と噛りだアと歌い、天下をのむ勢いであった。しかるにこのざまは何ぞや』というのである。
これでもわかるように知也は東北の生んだ熱血漢だった。
ついで同「木鐸」の明治45年4月号には知也を衆議院議員候補者とする推薦広告がのっており、推薦者には理想選挙同盟会・立憲国民党・東西田川郡同志会・飽海郡有恒会・酒田町中立派らが名を連ねている。次号には彼の宣言が載っている。これを要約すると、「政府は国民には重税を課し、自らは私利私欲と一党一派の事だけを考え、立憲政体の美名の下に専制横暴の悪政を行っている。今こそ金権によらず人物本位、言論文章によって政治家を選び、政治を革新しなければならない」というのである。
政談演説会には三宅雪嶺、黒岩涙香などが酒田に来て雄弁を振るい、知也はこの選挙で見事初当選を果たした。
知也は漢学者で征韓論の創始者・佐田白茅に学び、若くから大陸政策を考えるに至った。また鎌倉円覚寺の釈宗演について参禅しており、いわば東洋精神の精華のような人物であった。
明治31年から東部シベリア、満州、福建、広東各地を巡遊。44年には辛亥革命に参加し、孫文らと交わった。
犬養毅、杉浦重剛、頭山満らの知遇を受け、雑誌「日本及日本人」の記者として活躍した。
議員としては専ら大陸政策を語った。大陸に渡る際には常に死を覚悟していた。商業都市・酒田出身としては変り種の雄大な政治家だったが、国会で中国問題を演説中、激昂のあまり倒れ、49歳で亡くなった。
明治6年4月10日生まれ、酒田市本町出身の政治家。東京専門学校(現・早稲田大学)政治学を卒業。台湾総督府旧慣調査会嘱託になり漢詩文、さらに札幌の露清学校で中国語、ロシア語を学ぶ。明治31年から東部シベリア、満州など巡回し、辛亥革命に参画して孫文らと交際した。犬養毅、杉浦重剛らとも親しく、一時は雑誌記者になった。同45年から連続3期、8年間衆議院議員。大正10年11月26日、49歳で亡くなった。