見るべき産業とてなかった明治の初期、庄内での殖産興業に功績のあった人物といえば、まず第一に榊原十兵衛の名を挙げなければならない。
十兵衛は本名を政敏といい、庄内藩の小姓頭(こしょうがしら)を務めて450石の俸禄を給与された榊原隼人の長男として庄内鶴ケ岡の馬場町五日町口で生まれた。幼いころから武芸に熱心で青年期にはすでに田宮流槍術の使い手として知られていたと伝えられる。
慶応4(1868)年数え37歳のとき戊辰戦争に出陣、5月初旬より庄内軍の大砲隊長を命ぜられて石原多門のもとで越後長岡応援に参加したが、終戦間近の8月末から9月初めにかけては、鼠ケ関口において薩摩・長州・土佐らの征討軍を大いに撃破し、敵をさんざんに苦しめて勇名をはせた。
明治5(1872)失業士族授産のため松ケ岡開墾が始まると、組頭(くみがしら)に選ばれて60余名の指揮を執る。そして養蚕事業の将来性に着目し、翌年にはその責任者として県の内外より大量の桑苗を入手して開墾地に受け付けたのである。
明治7(1874)年、実習生を引き連れて先進地である福島県伊達郡の養蚕家や、群馬県佐位郡の蚕種製造場に赴き、長期にわたる実地指導を受けた。また、長野県松代に出かけては「座繰り器械」を手に入れて持ち帰り、自宅で家族に生糸を試作させている。
松ケ岡開墾地の本格的な養蚕事業は翌8年に始まり、この年7月には早くも蚕種を横浜に出荷して好評を博することになるのだが、これはひとえに十兵衛の努力によるといっても過言ではない。
十兵衛はこのころ空地の多い鶴岡士族屋敷での桑の栽培や養蚕をすすめ、現金収入を得る手近な方法としてこれを盛んに宣伝したので、その戸数は次第に増えて後には200軒近くにも達した。さらに庄内各地に桑の栽培を奨励し、山村にまで赴いてその栽培を指導したという。
明治9(1876)年、広く一般のため養蚕の解説を執筆し、その後男子向けに「蚕の友」を、農地の婦人向けには「蚕の夜話」という小冊子をそれぞれ刊行して、広く養蚕の有利なことを説いている。
話は前に戻るが、戊辰戦争直後の明治2(1869)年8月、蝦夷地は北海道と名称が変わり、北海道開拓使に赴任した鶴岡出身の逸材・松本十郎(後の開拓使大判官)は、北海道の開発策として桑の栽培による養蚕事業を政府に建議した。
この案が認められ、松ケ岡開墾の実績を高く評価していた開発長官・黒田清隆が酒田県に対し、開墾要員として庄内士族を北海道に派遣してくれるよう強く求めることになる。明治8年春のことであった。
そこで酒田県では早速この要請に応じて、開墾の経験がある若手を北海道に送ることを決め、松宮長貴(元庄内藩中老)を総督とした総勢230人の旧藩士が、同年5月開拓使所属の玄武丸に乗って北海道に赴いた。
これらの人々は6月から9月までの間、函館および札幌付近にある広大な原野の開墾に従事したが、このとき十兵衛は34人を率いる組頭となり、10万坪あまりの開墾を成し遂げ、その年の10月松ケ岡に戻っている。
その後の開墾地・松ケ岡での活躍は先に述べた。しかし、新しいことを情熱的に、次から次へ試みようとする十兵衛の企てには、ある種の冒険を伴い、向こう見ずと思える一面もあったのではあるまいか。類まれなその進取の気性は、松ケ岡を指導する御家禄派総帥・菅実秀の大事を執る保守方針に受け入れられず、大きな功績を残したまま、明治11(1878)年にこの地から去るのである。
松ケ岡を離れてからの榊原十兵衛の活躍ぶりは目覚ましい。この年の12月には、石原重雄、黒川友恭、永井善兵衛、三谷正右衛門、斎藤五右衛門らによって創業された第67国立銀行に副頭取として迎えられる。
翌年7月になり鶴岡郊外の新斎部村に建物を借りて十数人の工女を集め、座繰り器械による製糸の実験を行って成算確実と見るや、明くる13年4月に官許を得て49人の出資と銀行からの融資で鶴岡盛産社を設立して、自ら頭取となる。養蚕製糸場を新築し35人の工女を雇用するとともに、土地を求めて大規模な桑の栽培を行い事業の拡張を図った。
一方では黒川友恭、松宮長貴、長山義行らと共に庄内での塩の自給自足を目指した資本金1万2000余円の製塩社を設立、庄内浜の鼠ケ関早田に製塩設備を造って明治12年10月から枝条架法という方法で作業を開始している。
これは15世紀ごろイタリアで考案された製塩法だと伝えられ、十兵衛はすでにこの方法を採用していた千葉県大堀村に1年前から5人の実習生をやって修業させていた。次に記すのは、製塩社の設立事情と今後の食塩製造見込みについて、十兵衛が明治12年11月21日付で県に差し出した報告書である。
「当県下海岸ハ勿論、近海ニ食塩製場ナキハ其方法ヲ得ザルガ故ナリ。然ルニ東京府士族小野友五郎数年刻苦シテ発明セシ西洋風ノ製塩ハ、当地方二於テ尤(もっとも)可ナラント思考シ、依テ当県士族黒川友恭、長山義行等ト計リ、昨11年五月小野友三郎製塩場、上総国周准郡大堀村二生徒五名ヲ依頼シ、本年六月卒業帰郷致シ直ニ建築、去年二十六日開業シ、当分製塩致シ居候処、見込ノ如ク産出セリ。此業ニ同志ノ者九拾余名ニ至リ、人々分限ニ応ジテ随意ニ資本金ヲ積ミ出スヲ規則トナシ。但一場所四千五百円ノ資金高ト相定メ、ポンプ一ツ、枠屋八ツ、釜場壱ケ所、汐留四ツヲ以テ一場所ト定ムルモノナリ。此場所ニハ掛リ役三名、其他定雇拾弐三名ヲ以テ、壱ケ年製塩高弐千石乃至三千石ニ至ルベシ。当節生徒拾五六有名之、因テ十三年三月ヨリ亦一場所増築ノ目論見ナリ。年々歳々加入ノ者在レバ当県下海岸ハ勿論、他県ト雖モ適宜ノ場所ニハ連々設置ノ志願ニ有之候也」
この製塩は相当大規模なものであったらしく、「鶴岡市史」には次のように説明されている。『製塩法は海岸に長木で幅九尺、高さ三間、長さ二十間の棚三個をつくり、これを上下七寸の間隔で約二十の棚を設け、各棚の上に孟宗竹の枝を敷き並べ、棚の最上部に長さ二十間の板製の樋(とい)を設け、樋には無数の小穴を穿(うが)った。
高い車に釣瓶(つるべ)を仕掛け、人力を以て海水を釣り上げて桶に注げば、海水は桶の小穴から各棚の竹枝に滴(したた)り落ちる。その間に海風によって海水中の水分が蒸発し、枝条に付着した塩分は漸次濃厚となり下に流れ落ち、タンクに集められる、これを汲んでヅク窯に入れ、煮詰めて塩を造るのである』
この製塩事業に対し県も相当積極的で、しばらくの間は助成金を出していたという。しかし、年とともに設備更新に迫られ、人件費の高騰による採算性の低下もあって、次第に魅力が失われてくる。
やがてこの事業は人手に渡り、専売制の実施で県からの補助も打ち切られることになるのだが、事業そのものは細々ながらも明治42(1909)年まで継続されていた。
これまで述べてきたことのほか十兵衛が手がけた主なものとして、鶴泉社(清酒醸造会社)の頭取となっては本場の灘から酒造りの杜氏を招いて醸造法の改良を図ったこと。庄内では初めてのぶどう酒を醸造したこと。共力商社を興して商業に乗り出したこと。帆船会社を設立して海運事業を始めたことなどが挙げられる。
このように生涯を通じて彼により試みられた事業は枚挙にいとまがないけれども必ずしも大成したものばかりではなかった。しかし時代を彩るパイオニアであったことは確かで、死後しばらく経た大正5(1916)年の奥羽六県共進会では産業振興の先覚者として表彰されている。
産業功労者。天保3(1832)年3月18日、庄内鶴ケ岡に生まれる。戊辰戦争で勇名をはぜ、松ケ岡開墾に従事して同開墾地での養蚕事業の基礎を築いた。庄内に広く養蚕製糸業を普及させた。また銀行経営・製塩その他多くの事業に挺身して殖産興業の先駆者として称される。明治35年7月31日に亡くなった。