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郷土の先人・先覚188 25年間の土俵、幕内は17場所

佐野山庄兵衛(明和4-没年不詳)

出羽丘陵の麓に位置する滝野沢は山紫水明の地である。佐野山庄兵衛は、明和4(1767)年に飽海郡平田郷滝野沢村(現・酒田市)で農業を営む大井庄兵衛家の長男として生まれている。少年時代から体力に優れていたという。天明6(1786)年、20歳で力士を志し、同じ庄内出身の初代出羽ノ海の門人となった。出羽ノ海は運右衛門といって羽黒町玉川(現・鶴岡市)の生まれで、最高位は前頭筆頭でありながら、部屋経営に手腕を発揮して名門・出羽ノ海部屋を築くと共に、代々相撲協会の要職に名を連ねている。ちなみに2代目出羽ノ海も瀧右衛門といい、立川町荒鍋(現・庄内町)の出身である。

ところで佐野山は入門した翌7年に幕内2枚目に付き出され、出羽ケ関と名乗っている。この地位が佐野山の最高位で、その後は上位に進まず、幕内と幕下(十両格)を往来(当時は十両制度はなく、幕下筆頭から10枚目までの力士)、25年間の土俵で幕内在位は17場所であった。

相撲通で知られた故伊藤珍太郎氏の『庄内から出た力士』によると、「25年間48場所の成績は、幕内と幕下上位の往復6回、通算勝星85に対し負星187、勝率3割1分5厘と低く、土俵を務めた48場所中勝越7場所、負越35場所、相星6場所の星数である。だがこの成績でどうして幕内と幕下上位を永く保ったのか不思議である…」と書いている。

四股名については前に記した出羽ケ関の次に、寛政2(1790)年に増見山、同4(1792)年に備前の池田家に抱えられ熊山と改めた。その後、池田家から暇をとり、庄内藩お抱えになったとき、鴻ケ峰と改名した。文化2年には6度目の入幕を果たしたのを機に、5回目の四股名である佐野山を名乗ったが、文化6(1811)年引退した。

没年は不詳であるが、出羽ノ海一門の中で、幕内力士第1号が佐野山であることは特筆に値すると思われる。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1990年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐野山庄兵衛(さのやま・しょうべえ)

力士。酒田市滝野沢の生まれで天明6(1768)年、20歳で羽黒町出身の初代出羽ノ海に弟子入り。幕内2枚目が最高位。46歳の引退まで25年間、48場所土俵を務めた。その間、四股名を出羽ケ関-増見山-熊山-鴻ケ峰-佐野山と改めている。出羽ノ海一門の幕内力士第1号といわれ、備前岡山藩のお抱え力士(寛政4-6年)を務め、その後、庄内藩のお抱え力士として活躍した。幕内は17場所を務めた。

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