本間重三は通称・突抜の本間に生まれた。突抜とは本町の入口の辺りをいい、昔は酒田町組と内町組の間を堀と土手で仕切られていたのを突抜いたことによる。先祖は現在の本家のさらに本家にあたる久右衛門の二男・仲雄と、3代目・光丘の姉於佐野夫婦である。大正から昭和にかけては味噌屋をしていた。
重三は鐐吉の三男として生まれ、酒田中学校に進んだ。同級生に戦後、社会党の県会議員として活躍した梅津金吉や浄徳寺住職・長沢俊雄、酒田東の校長をされた渡部信治郎らがいる。重三が級長だった。
彼は酒田中学校から東京商科大学、今の一橋大学に入った。当時、一橋大学は英会話を試験に取り入れ、発音を重視していたので、よくもそのころの酒田から合格できたと驚かれた。卒業すると間もなく昭和8年、酒田市役所に勤務し、庶務課長、考査役、総務課長を歴任した。探偵小説をよく光丘文庫から借りて愛読した。当時、光丘文庫にいた庄司与作さんは電話で頼まれて本を持ってきているうちに、その才能を認められて市役所に引っ張られた。彼は後に収入役にまでなっている。
21年、青塚恒治市長が公職追放で退任、重三は37歳の若さで市長代行者となった。翌22年4月、初めての首長公選に立候補して酒田市長となった。この市長選では重三と、飽海地方事務所をした五十嵐重之と社会党の藤巻多一(元東京都の区会議員)の3人が争った。
選挙後、重三は藤巻を助役として迎えようとしたが、敵の軍門に下るのをいさぎよしとしない社会党は即座に断った。しかし後に悔やんだそうである。重三の態度は敵に塩を送るもので、選挙が尾を引く現在ではとても考えられないことである。
ところが、進駐軍山形司令部のナン中佐に、重三は本間家一族で、その代弁者だとの密告があり、司令部は本間祐介を山形に呼んで詰問した。祐介は重三は公正な人間だ、このことはこれからの彼の行動を見れば分かると弁明し、その通りだったので、後には司令部も重三に協力的になった。
こうして22年から34年までの3期12年間、市長として戦後の復興に尽くした。酒田病院の建設、六三三制の学校教育、港湾振興、福祉施設、民主化などに貢献し、戦後復興の基を築いた。助役・小倉謙三、収入役・本間光三の時代には三役三三(さんぞう)といわれた。
彼は温和で誠実な人柄であり、公正な市政運営に努め市役所内外から信望を得た。4選には出馬せず、助役の斎藤仁八を推した。
明治42年、本間一族・鐐吉の三男として生まれる。のちに長兄・鉄之助の養子となる。南千日町に居住。長い間、市役所に勤め、行政に通じる。戦後、初めての公選酒田市長となり3期12年間首長として活躍、復興の基礎を作った。昭和34年退職、同39年11月、55歳で亡くなった。