三浦半三郎は、戊辰戦争のとき自説を曲げず己の節操を貫き通して処刑された幕臣・天野豊次郎、佐藤桃太郎、関口有之助の3烈士を手厚く処遇し、かつ供養した義侠の人である。
半三郎は天保3(1832)年、田川郡八ツ興屋村(後の斎村、現在の鶴岡市)の豪農に生まれている。
明治元(1868)年に佐幕派の天野豊太郎ら9人が戦に敗れ、庄内藩に投じたが、そのころ藩は開城していたので、やむなく八ツ興屋の林高院に身柄を預け、同村の半三郎に世話を依頼した。
その後、一部の志士は官軍に降伏して東京に帰ることになり、半三郎は旅装を整え、路銀を与え旅立たせている。残された天野豊三郎、佐藤桃太郎、関口有之助らは降伏の勧告を拒み続けたので、酒田官軍屯所より呼び出され、取り調べを受けた後松山藩に預けられる。やがて明治2年4月21日、3烈士は酒田刑場を鮮血に染め、処刑されている。
そのころ半三郎は病床にあったが、知らせを受けると、「この上は3人の首を村に持ち帰り、永代供養するほかない」と決意、病を押して一行5人と共に7里余の行程を鶴岡の大宝寺まで歩き、赤川を舟で酒田に下った。
処刑前3人を宿した佐藤九郎右衛門も仁侠の人で、半三郎一行に駆けつけ、遺体を埋葬している妙法寺には官軍が進駐して、危険であるから断念した方が良いと忠告したが、決意は固く夜を待つことにした。
やがて夜中、妙法寺境内に侵入して松の根本に潜み時機を待った。このとき飛んできたホタルを捕えて、持ってきた磁石の針を照らしながら進んだといわれている。
3烈士の埋められた場所を探し当て、土を掘り起こし首を取り出して用意していた白木綿で作った首袋に入れ、遺骸は元の土中に埋めて持ち帰ったのは夜明けであった。
その後は待たせておいた川舟に乗り、酒田に魚を買いにきたと称してむしろで首を隠し、夕刻には無事八ツ興屋に到着している。
処刑が21日で、半三郎らの八ツ興屋出発が23日、目的を遂げ八ツ興屋に持ち帰ったのが24日で、処刑後3日にして帰った首を、首桶に納め、林高院に大勢集まってお経をあげた。
明治3年林高院に3烈士の墓を半三郎が中心になって建立された。また、4月21日の命日は、当時用いた磁石をあげて供養するよう半三郎は子孫に伝えたという。明治18年に54歳で亡くなった。
義民。田川郡八ツ興屋村(現在の鶴岡市)の富農。降伏勧告を拒んだ佐幕派志士・天野豊次郎、佐藤桃太郎、関口有之助の意気に感じ、食物や衣服を補給。3烈士が酒田刑場で処刑された後、同志とともに3人の首を盗み取り、八ツ興屋村の林高院に埋葬した。