酒田市相生町にある海晏寺山門前の墓地に大きな「圓山卯吉翁寿碑」がある。本間光弥篆額、藤塚熊太郎撰文、村上久作書であり、卯吉翁の実績とその人となりを称えている。
圓山卯吉は文久元(1861)年12月に生まれており、長じて上中町で河瀬屋の屋号で漆器や木工品を扱った人である。といっても自身は職人ではなかったが、当時の地方産業の不振を嘆き、漆器・木工業を研究。有能な職人育成のため、新潟、会津若松、静岡などの先進地より教師を招いて技量の向上を図った結果、品質改良や意匠の斬新など見るべきものが多くなり、地域産業発展に効果をあげ多くの褒章を受けている。
斎藤兼吉、鉄砲屋鈴木浅吉とともに、近代の名人指物師といわれた土田龍八もこの門で腕を磨き陰に陽に圓山卯吉の庇護があったといわれ、人間味のある温かい人柄のようである。
そうしたことから彼は漆器や木工類の輸出を広げ、北海道方面の販路開拓に意を尽くし、多量の漆器木工諸製品を酒田の特産品としてさばいている。ほかに多くの職人を育てた具眼の人である半面、目先のきく事業家であったと思われる。
河瀬屋の店舗は酒田の繁華街である中町に大きく構え、店頭には漆器や新しい指物の商品など、好きな書画骨董類と並べて飾り、商売をしていたという。
また卯吉は今町通りの裏手の小路に、自費で河瀬長屋を建て、経営する工場で働く人たちを住まわせており、明治末期には上内匠町にあった済世学校を河瀬長屋の地続きに移して、恵まれない子弟たちのため木工技術を習得させた。土田龍八もこの学校の先生として雇われ技術指導をしたという。
卯吉が酒田の漆器、木工産業を発展させた裏面には、木工徒弟教育による職人の養成、名人指物師・土田龍八を後援するなどの面倒見の良さとともに、恵まれない人たちへの思いやりであったと思われ、こうしたことが実業として一家をなした要因であるだろう。
前述した卯吉の寿碑は大正12年建立で、裏面には世話人5人のほかに28人の名が刻まれている。その中に、塗物師、挽物師、仏壇師、錺屋(かざりや)、蒔絵師、製材職、彫刻師、漆器商の名前があり、いかに彼ら職人たちとの温かい交流があったかを知ることができ、こうしたことも卯吉を大成させた基であろう。亡くなったのが寿碑建立の翌13年、64歳であった。
漆木工業者。河瀬屋の屋号で漆器木工を業とする。先進地から職人を招いて徒弟に技術を学ばせる。名声とともに、製品は次第に斬新な意匠を加え、たびたび褒章を受ける。明治末期には済世学校を経営して貧困子弟に木工徒弟教育を施し、のち多量の木工品を北海道に輸出する。大正12年には、門人らが海晏寺に寿碑を建立した。大正13年に64歳で亡くなった。