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郷土の先人・先覚237 女子教育に生涯をかける

斎藤辰(明治18-昭和46年)

明治31年開校の酒田町立高等女学校(県立酒田西高等学校の前身)は当地方唯一の女子中等教育機関であった。その中にあって、斎藤又治・辰夫妻は女子教育の場をさらに大きく広げた功績者であった。

斎藤辰は得意とする裁縫手芸の勉強を深めるため、明治36年北海道に渡り、札幌女学館で2年間学習、料理・作法・生花・茶道などは家事見習いをしながら学んでいる。女学館卒業後間もなく帰郷、松嶺(現・酒田市松山地区)を離れ、酒田町北千日堂前に居住。家塾を開いて、明治40年から大正2年まで近隣の娘たちに裁縫手芸を教えている。

一方、遊佐出身の又治は、旧姓佐々木。肝煎などを務めた家柄で、小学校時代生成期優秀であったが、幼少のとき、父を失い、進学の道を断たれ、明治41年辰と婿養子縁組をしている。その後、飽海郡耕地整理組合、信成合資会社に勤務、退職後の大正7年に輸出絹織物機業を目的に共信機株式会社を北千日堂に設立、その取締役となった。

そのころ辰は機織業を廃業して裁縫塾の開設を決意、山形市の竹田裁縫学校を視察、学校経営などを学んでいる。大正12年2月、酒田町寺町浄徳寺の庫裡を借り、生徒の募集を開始。同年5月5日付で斎藤裁縫塾を設立、応募生は25人であった。

塾の主任教師は辰、教師は仙台市松操女子高出身の大場鉄代、普通科と高等科を置き、授業科目は裁縫、家庭染色法、ミシン使用法であった。辰は裁縫技術の教授だけに満足せず、総合的な知識技能、教養の習得と教育的な環境、施設に目を向けていた。そのため天窓をつけて教室を明るくし、本堂の広縁では卓球もさせている。

大正14年に本間光勇の好意により、酒田駅前天王下の飽海耕地整理組合事務所に塾を移し、同年4月酒田裁縫塾と名を改め、修身、国語、算数、家事も教育科目に入り、郡長、町長などが顧問となっている。

昭和2年、私立学校令による酒田裁縫女学校としての設立が認可された。同3年に新校舎建設、校舎の設計などは、土地測量や建築設計を得意とした又治が行っている。辰は長い経験を生かし、自力で教科書の編集に着手し「裁縫参考書」前後編を同年発刊している。

終戦直前に校舎が軍需省関係に転用され、生徒募集停止となったが、昭和21年夫妻の資産寄付によって財団法人酒田天真学園を設立し学校が再開された。

辰は又治没後も昭和31年学園理事長となるが、半世紀以上もの長い間女子教育に情熱を燃やした。

(筆者・須藤良弘 氏/1991年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤辰(さいとう・たつ)

教育者。明治18年5月、瀬戸物商である斎藤折蔵・ひさの長女として松嶺町本町に生まれる。松嶺小学校時代も明敏で、特に算術と裁縫に優れていた。又治・辰には実子がなく、辰の姪であるヨリさんに県立酒田中学校教員・修治さんを迎えて学園を継ぐ。修治さんの話によると、辰は仕事に熱心で厳しく、自分でやってみないと気が済まなかった。気に入った布があると、寝食を忘れて裁断などに没頭したという。戦前にカメラを買って孫たちを写し、自分で現像もした。強気のところがあったが、夫婦仲良く、困っている人を見捨てることができないやさしさがあったという。昭和46年12月30日に亡くなった。

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