今田三郎は農業者として政治家として、一貫して地域産業の改善を唱え、自らの実践によって、その発展に大きな貢献をなした一人である。
今田三郎の政治歴をみると、二十代の明治24年から大正9年まで通算22年間飽海郡会議員、明治26年から同31年まで上郷村村長、同28年から大正8年まで通算14年間山形県会議員、明治36年から同42年まで内郷村(現・酒田市松山地区)村長などを務めている。明治29年進歩党山形県支部が発会すると、その常議員となり、同31年自由党と進歩党が合し憲政党となるや、その県支部の常議員にもなった。有恒会の中心人物であったが、のちに有恒会の政敵ともいうべき政友会と手を結んでいる。
今田三郎自身農業や養蚕業を営み、農業技術の改良に努めている。稲の品種改良では、大正11年に山寺糯(もち)と女鶴糯との交配によって「今田糯」を育成した。今田糯の県内における最多栽培年は昭和17年で、その栽培面積は、1283ヘクタールに及んでいる。今田糯以外にも山寺糯、山寺金子、今田ニ号糯など多くの新品種を生み出した。
養蚕にも力を入れ、当地方に多かった蚕病の研究を自ら行い、桑木の改良事業も進めている。明治34年の奥羽六県連合物産共産会には、大豆「霜不知」とともに蚕種「小石丸」を出品している。
「今田鍬」など多くの農具の改良を行い、乾田馬耕にも強い関心をもっていたことから、乾田馬耕教師・伊佐治八郎の優遇を主張し、農業試験場庄内分場の設置にも尽力した。飽海郡耕地整理期成会の医院や飽海郡農会長などの要職にあって、農業の振興と発展に努めた。
今田三郎が関心をもって活動したものは実に広範囲にわたっている。鉄道敷設運動も早くから手をつけ、明治37年結成の飽海郡鉄道期成同盟会の発起人にも名を連ねている。サケの人工ふ化事業が将来利益をもたらすものとして、その推進を建議している。
「農工相伴テ進歩発達ヲ謀ラサルヲ得ス、然ルニ農ノ一方ノミニシテ、工ハ放任シテ一向顧サルハ甚タ不衡平」として工業の振興を訴え、製糸・織物・醸造・食品・漆器・木工・馬車類・金工・わら工品などの工芸品品評会の開催を提案した。酒田町の鉄道敷設も、工業の発達なくては何の利益もなし、と主張している。
政治家。上郷村山寺(現・酒田市松山地区)医師・今田元達の三男として慶応元年6月18日生まれる。若い時から年少気鋭の政治家として注目された。松嶺の正心学校援助など教育面でも尽力した。