長い1本のフィルムを撮り終わり、クランクアップを迎えたのは5月13日だった。最終撮りを終えて監督が1人ひとりの労をねぎらった。
みんな休みを返上し、スケジュールをやりくりしてきた疲れがどっと出る瞬間である。
「終わったぁ」
ここで関係者一同は解放されるが、監督には編集と音入れの仕事が残っている。締めくくりの作業であるが、こちらは別で、共同の作業はここまでなのだ。スタッフの1人、相場貴和さんはそれから一昼夜ではなく、二昼夜眠り続け、ベッドから起き上がれなかった、という。かなりきつい、通しの肉体労働であった。
撮影中は緊張してスタンバイしていたのに、解放されてタガがはずれ、それがたるみになってぐったりするのかもしれない。
各自の思いが積み重なった作品、仕上がりを待った。中にはエキストラで出演した人もいる。担当を離れ、「役者」として出演、映画の巻末に名前が出てくる。
「あれね、最後に名前がでてくるでしょ。みな映画館では席を立たないで見てくれるんですよね。時には拍手が沸き起こったりして」
つくり手としては観客の反応が気になる。後ろの席で見ていると
「思わぬところで笑ってくれたり、いちいち反応してくれるのよね」
真っ暗い館内で、配給会社松竹のマーク富士山が出て、やがてタイトルに続き、ファーストシーンが映し出される。
芝居やコンサートにはない、スクリーンの迫力、映像の持つ力強さ、音楽が包み込む風景と配役の誘い。気持ちが高ぶり、画面へと吸い込まれていく。家庭のテレビでは絶対に味わえない。
「スピーカーのボリュームはすべて館内に合わせてつくってありますからね。音響はいいんですよ」
映せばいいのではない。総合芸術として制作された意図を満足させる仕掛けが必要なのである。「隠し剣 鬼の爪」では生オーケストラの吹き込みをやり、主人公の旅立ちにふさわしい大地の明るさを思わせるよう、緑がさやぐ爽やかさでエンディングを演出した。
カメラワークでいつも信頼を置いている長沼六男さんに、監督がラストシーンのきえ(松たか子)の表情を尋ねていた。
「どうでした」
「ほんと、いい顔でしたよ」
それを聞くと、にこやかに活気を帯びた表情になり、筋書き通りの出来に安心したようだった。
江戸時代のプロポーズはどんなふうにしたのか、また答える方も歯切れ良く返事をしたのか、口ごもったのか、どっちにしても文献がない。
小説通り、途中までは
「おれはお前が好きだ。お前はおれを好きか」
「そんなことは考えたこともありません」
と、原作に従った。その後転じるやりとりは
「ぼくが考えたのです。宗蔵に好きだと告白されたきえは余裕を持ち、優位に立ってこの決定権は宗蔵に握らせた方がいい。そうした計算のできる賢い女性だったと思うのね。そこでそれはだんなさんの命令ですか、と彼女はからかったわけです」
現代風に解釈すれば、武士を辞して町人になった男は、村娘のきえと同等なのになぜ雇用者と使用人の関係になるのか、疑問に思う人がいるかもしれない。
当時の男女の会話に
「愛してます」
などという、常とう恋愛用語はなく、好き嫌いの二語の中から選択するならば、返事は
「好きです」
と、断言してしまうのはあまりにも色気がない。
キャッチボールのように投げ返して、宗蔵に言わせてしまう。ここに主導権をとった女性の巧みさがあり、男を心地よくのせ、勝ちを譲ったのだ。
「この後宗蔵は尻の下に敷かれたでしょうね」
結婚生活は平穏で、しかもこの関係は孫ができるまで続き
「おじいちゃんとおばあちゃんはどうして結婚したの。おじいちゃんがプロポーズしたの」
と、聞かれるたびにきえが答える姿を監督は想像し、にんまりするそうだ。映画には大抵、画面に出ない落ちが隠されてある。