昭和17年春、鶴中(現鶴南高)夜間部の新入生だった私が、荘内病院裏の暗がりで取っ組み合いの喧嘩をした時、人力車を降りた一見紳士風の酔っ払いに一喝された。見ていたのと下になった奴は逃げたが、襟首を掴まれた私は逃げそこねて説教を食ったあげく、学資ぐらい出すからわしの所で働けと叱られて、翌日から報知新聞鶴岡通信部の雑用係という羽目になった。
一見紳士風の人がのちの荘内日報の創始者佐藤寅之助さんだったのである。通信部は自宅の一角であったが、戦時中の混乱期のため一年も経たないうち報知は読売新聞に吸収され、通信部は廃止、寅之助さんは己むなく鉱山師の熊谷利三郎氏と共同で、水沢の石山部落の亜炭坑の掘削事業に転じて、そこの場所は西田川炭坑事務所に変わったのだった。
引き続き勤めたが、佐藤家の家族同然の扱いで、小遣い程度の手当は出たり忘れられたりという、のどかな待遇であった。
寅之助さんは、戦争中は中国(当時は支部の北支と中支)に2度、従軍記者として出征し、昭和14年に帰還してから報知や炭坑の仕事をしたが、その一方で地元出身の石原莞爾陸軍中将が主張する東亜連盟の地方運動を手掛けたのが災いして、戦後GHQ(連合軍総司令部)からレッドパージ(公職追放)処分を受けてしまったため、表面には立てなくなり、隠忍自重耐えざるを得ない不本意な時期を迎えるに至ったのである。
だが、佐藤寅之助さんの新聞事業に対する意欲は、締めつけられてなお燃えていた。たまたま隣家で親交があった元ジャーナリストで南画(水墨画)の大家だった山口白雲老との大論争を、私は縁側に腰をかけていて聴いたことがあるが、庄内地方の新聞事業は、県内でも置賜・村山・最上の地区とは一画一線を引くべきであることは、地域性、民俗性、そして伝統的な面で容認せざるを得ない。いや、新聞報道に徒な主観は無用、記事は社会を写す鏡、あくまで客観が本道だとして激論を交わしていたことがあった。
公職追放中でも寅之助さんはその道に心ある人々の中心だった。池田一太郎県議、五十嵐喜一郎県議ほか地元では錚々たる顔ぶれが回を重ねて来訪し、庄内の復興発展は情報文化の推進こそカギだと論じ合っていた。その後、永田町の一匹狼といわれた池田正之輔代議士も、鶴岡を訪れるとまず寅之助さんと意見交換するのが常例であった。
昭和21年初頭、寅之助さんは(鶴岡日報)元記者の松井諦巌氏を起用して週1回発行の荘内自由新聞の刊行にこぎつけた。情報と世論に飢えていた戦後の庄内の人々は、僅かな紙面でもその内容に注目した。根っからの記者根性に培われた寅之助さんと松井氏の採算無視の荘内自由新聞であった。二人づれの読者が社に現れて週3回にできんかとねじ込まれたこともあった。寅之助さんは政界、報道界に広く人脈をもち、毎日系や新聞の新聞社系(東京・九段)その他に働きかけ、新聞紙の配給拡大に日夜懸命であった。
昭和24年10月、晴れて荘内日報に改題したとき、柿でいえば渋がとれるまでが大変だった。これからが本番だと、しみじみ述懐していたのを私は聞いた。
庄内地方唯一の日刊紙荘内日報社が、社員の総力で、創立50周年の輝かしい歴史を打ち立てた。私は日報社の苦難時代を、この目で見ていただけに感激ひとしお、心から万歳と叫びたい。
終戦の昭和20年秋、図らずも私が、山形支局から郷里鶴岡通信部再建のため鶴岡に赴任したら、日報社の初代社長となった佐藤寅之助さんが、戦争で荒廃した街並みを背に、新聞社設立に闘志を燃やし東奔西走していた。もうあれから50年。
戦前から戦中にかけ、庄内地方には鶴岡、田川地区を基盤とした庄内新報、鶴岡日報、それに鶴岡新聞、北羽新報といった日刊新聞社があった。庄内新報は政友会、鶴岡日報は民政党、ともに政党機関紙の役割を果たしていたようだ。この両紙は選挙があると、敵を攻撃する激しい論陣を張っていた。また、酒田には酒田新聞、両羽朝日新聞と出羽興民新聞だったか新報があったようだ。
満州事変にはじまった戦争は、支那事変からさらに大東亜戦争に拡大、エスカレートし長期化していった。その頃から政府の言論統制が厳しくなり、記事の検閲と差し止め記事が多くなった。自由に記事は書けなくなった。そればかりでなく、新聞用紙に事欠く事態を招き、廃刊に追い込まれる地方新聞が出て来た。庄内新報と鶴岡日報は、政党が後ろ盾になっていた関係で、辛うじて操業を続けることが出来たようだ。
ところが、昭和16年暮れ頃と記憶しているが、政府の第1次新聞統制令の発動で、庄内新報と鶴岡日報は強制的に合併させられ、さらに1年後の第2次非常措置によって廃刊となり、地方新聞は一県一紙主義で山形新聞のみ残った経緯がある。
戦争中は新聞界の苦難時代。隔世の感がある。
初代社長の佐藤さんは、荘内日報社今日の基礎を築いた人。私のよく知っている人でもある。性格が明るく、どんなことでも忌憚なく話のできる人でもあった。政民時代、民政党の機関紙・鶴岡日報に経済部記者として入社した。あとから郷土部隊の従軍記者に抜擢され渡満、郷土出身兵の近況を報道、日報の紙面を飾っていた。晩年、政界入りし鶴岡市議、県議会議員として活躍、地方自治に貢献したようだ。
(荘内日報五十年史より)