2024年(令和6年) 5月11日(土)付紙面より
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日本の女性科学者の草分け
勉学への強い意志 人材育成再評価
元中学教師の長南さん(鶴岡)執筆紹介
2025年度版の中学3年生向け道徳教科書「生き方を創造する」(日本教科書)に、日本の女性科学者の草分けの一人として知られる、三川町押切新田生まれの加藤セチ博士(1893―1989年)を紹介した文章が掲載された。大正時代、女子の入学に固く門戸を閉ざしていた北海道帝国大学(現北海道大学)に女性として初めて入学を認められ、その後、国立総合研究所・理化学研究所の女性研究員第1号となって世界的な評価を受ける研究成果を上げた加藤博士の勉学への強い意志と功績を紹介している。加藤博士については近年、功績とともに女性研究者育成に尽くした活動などを含め再評価の動きが強まっており、理化学研究所では博士の名を冠した女性研究リーダー育成プログラムも始動させている。
紹介文を執筆したのは、博士の業績を研究している元公立中学校国語教師の長南征子さん(80)=鶴岡市馬場町。25年度の教科書改訂に当たり、道徳専門の教科書会社・日本教科書から執筆依頼を受け、加藤博士を取り上げた。
3年生向け道徳教科書に34編ある教材の1編で、「加藤セチと佐藤昌介~決まっていることはない~」のタイトルで4ページにわたって掲載された。内容は、三川町の豪農の旧家に生まれた博士が、父の病死や生家の破産などで通っていた鶴岡高等女学校(後の鶴岡北高、現致道館高)を退学しなければならなくなったことなど、苦難の道を歩んだ生い立ちに触れ、「極貧の環境の中で、生きる力を学問に求めた一人の女性がいた」と紹介。
女性初の北海道帝国大学への入学の経緯では、「前例がない」として検定試験さえ受けさせてもらえず、総長室前に座り込みを続けたことを記し、学ぶことへの強固な意志と目的を抱いていたその際の博士の心情を「男が作った男本位のきまり、人の作ったきまりを、人が動かせないわけがない。学ぼうとしている人に、男も女もないはず。あきらめてはいけない」とつづった。教授会の根強い反対があったものの、米国に長く滞在した経験がある佐藤昌介総長の日本の女子教育改革への強い思いもあって、博士は入学が認められた。
大学卒業後、加藤博士は1922(大正11)年、創設間もない理化学研究所の研究員となり、31年に「アセチレンの重合」を主論文として、京都帝国大学から理学博士の学位を授与された。日本では3番目の女性理学博士だった。研究論文は英国の専門誌やドイツの学会でも高く評価、称賛され、戦後は理化学研究所初の主任研究員となり、日本の女性研究者の代表としてソ連政府にも招かれた。
加藤博士はさらに、女性研究者の先駆けとして女性の科学関係の会の発足に尽力したほか、同研究所退職後は80歳までの15年間にわたり、女性教員や若手研究者向けの「理科ゼミ」を主宰。後進の指導にも尽くした。理化学研究所は2018年度、国際的な活躍が期待できる女性研究者を、世界的女性研究リーダーとして育成する「加藤セチプログラム」を開始した。
加藤博士を教科書に執筆した長南さんは「加藤セチさんは、女性に対する理不尽で矛盾いっぱいの世の中を強い意志を持って変えていこうとした人物。その思いとともに、素晴らしい研究成果、人を育てる活動を若い人たちに伝えたいと思った」と話した。
加藤セチ博士 鶴岡高等女学校退学後、山形女子師範学校に進学。狩川尋常高等小学校で教員を務めた後、東京女子高等師範学校(現お茶の水大学)に進学。札幌の高等女学校で教師を務めながら北海道帝国大学に入学した。理化学研究所には1922年から定年の54年まで勤務。その後も嘱託として研究を続けた。1968(昭和43)年に三川町最初の名誉町民となり、母校の押切小学校には顕彰コーナーがある。