2022年(令和4年) 10月8日(土)付紙面より
ツイート
旧満州国東安省・北五道崗(きたごどうかん)で生まれた洋画家の中田徹さん(80)=鶴岡市美原町=が、ふとしたことで知り合った元朝暘一小校長の小田悟志さん(63)=同市城北町=の協力で、生まれ故郷のことを知った。今月3日には宮城県名取市に住む“同郷”の高橋令子さん(87)を訪ね、亡き父や現地の生活などを聞いた。
亡き父の教え子とも面会かなう
中田さんの父・久彌さんは斎村国民学校(現鶴岡市立斎小学校)の教員で、当時斎村の村長だった上野甚作氏の推薦を受けて1930年代に旧満州国東安省・密山縣の北五道崗へ妻と共に出発。現地の国民学校で教鞭(べん)を執っていた。徹さんは北五道崗で生まれ、幼少期を過ごした。
第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月10日、突如として旧ソ連が満州国に侵攻し、国境沿いにあった北五道崗は瞬く間に戦場となった。幼かった徹さんは当時について「ほとんど記憶がなく、誰に保護されていつどうやって日本に戻ったのか分からない」と振り返る。少なくとも1947年、5歳の頃には現在の鶴岡市稲生一丁目の父の実家で暮らしていたという。のちに両親は引き揚げの途中に死亡したことが分かった。
成人した徹さんは仕事や絵画に打ち込む中でも「自分の古里はどんなところだったのか」という思いを抱えていた。そうした中、昨夏に鶴岡市中央公民館で開かれた「鶴岡市平和の集い・資料展」の展示コーナーで北五道崗の資料を見つけ、思わず「ここだ!俺が生まれたのはここだ!」と声を上げた。
資料展への協力者としてたまたまその場に居合わせたのが小田さんで、徹さんの声を聞いてすぐに満州国の地図の前に連れて行ったところ、徹さんは「やっと自分が生まれた場所が分かった」と感慨深げに語ったという。
同年12月、小田さんは満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)で購入した中国残留孤児関連の本の中に、山形県山辺町出身で北五道崗開拓団に入植した高橋令子さんの名前を見つけた。「何とか徹さんと会わせてあげられないか」と考えた小田さんは県中国帰国者相談センター(山形市)と相談し、高橋さんが宮城県名取市に住んでいることを突き止めた。
コロナ禍で直接顔を合わせる機会はなかなかつくれなかったが、今月3日に徹さんと小田さんが名取市を訪れ、面会が実現した。徹さんは「初めはあまり反応がなかったが、北五道崗国民学校の写真を見せた途端に高橋さんが父を指さし『これは中田先生だ!懐かしい。こっちが私、こっちが友達。中田先生はとても優しくて教員宿舎へ何度も遊びに行った』と堰を切ったように話し出した」と面会時の高橋さんの様子を語った。
高橋さんは2人の前で久彌さんが作詞作曲した歌や軍歌などを披露するなど、昔語りは終わることなく続き、別れの際には「また会いに来ます」と呼び掛ける徹さんの手を名残惜しそうに握り続け離さなかったという。
徹さんは「父と同じ場所にいた人と会えて、変な話だがほっとした。幼少の頃、自分は確かに両親と満州にいたのだと感じられる」と“古里”を懐かしむとともに、「満州にいた多くの日本人が命を落とした。ソ連軍に襲撃され、逃亡中に餓死した人もいる。高橋さんのように残留孤児となった人も数え切れない。戦争の悲惨さを後世に伝えていかなければならないと思う」と語った。
また、小田さんは「高橋さんが久彌さんのことを知らなかったらどうしようと不安だったが、徹さんが少しでも自分の過去に近づくことができて良かった。2人の話はとても心温まるものだったが、同時に戦争というものがどれだけひどいものかあらためて感じさせられた」と話した。
久彌さんは生前、日本の親類、きょうだいに満州で撮った写真や現地で詠んだ歌などを送っていた。その中に望郷の思いをつづった一編が残されていた。
「幾日か まちまては(ば)とて 古里の空に至らむ けふ(今日)も暮れゆく」
北五道崗の集落があった場所は現在、ダムの底になってしまったという。
2022年(令和4年) 10月8日(土)付紙面より
ツイート
酒田市八幡総合支所は6日、鳥海山(2236メートル)の今季の初冠雪を観測したと発表した。昨年より12日、平年より4日それぞれ早い観測という。
酒田測候所が無人化された2009年10月以降、平場の同市観音寺にある同支所から職員が目視で観測し、発表している。この日は朝、山頂付近が雲に覆われて見えなかったが、その後に晴れ午前11時半ごろ、山頂付近がうっすらと白くなっているのを確認。木の枝に水蒸気が付いて凍る「霧氷」などでないことを確認した上で「初冠雪」を発表した。