2009年(平成21年) 11月12日(木)付紙面より
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終戦直後の食生活支える
作家も配給に困惑
昭和を代表する作家、横光利一は妻の実家がある鶴岡市西目(旧西郷村)に疎開し、終戦の日(8月15日)からその年末に帰京するまでの事を日記風にまとめた代表作『夜の靴』で、食べ物の配給について困った様子を書いている。
〈9月某日 米の配給日。この日は心が明るくなるはずだのに、私ら一家は反対だ。配給所まで1里(約4キロ)あって、そこを2斗(約30キロ)の米を背負ってくることは不可能である。人夫を頼もうにも、暇のあるものは1人もいない…〉
1939(昭和14)年、戦時統制経済でコメだけでなく雑穀・食料品全般からマッチや衣類まで統制品として指定日に配給された。日用雑貨品は我慢しても食料だけは確保しなければならず、コメは闇値で高騰した。
戦中・戦後のコメ一石(150キロ)当たりの値段の一例だ(上段が公定価格、下段が闇値=余目町史から)。1943年=50円40銭・80円▽45年=56円55銭・200円▽47年=1459円50銭・5000円▽51年=9300円・2万8000円。闇値は戦時中の約1・6倍が終戦の年に約3・5倍に高騰。供出米制度で農家でさえ食べるコメに事欠く時代だった。
魚配給で業者分裂
一方の魚類にはコメの供出に相当する出荷割り当てがなかったが、漁師の出征で漁獲量は減っていた。45(昭和20)年4月、山形県は水産物増産・確保のため、「庄内浜漁業少年隊」を結成。第一分隊(念珠関、温海、豊浦、加茂)、第二分隊(四ケ浦、吹浦、飛島)を設け、各班ごとに青少年を漁業後継者として育てようとした。
それでも一般家庭への魚介類はなかなか円滑に行き渡らず、闇取り引きが横行した。この傾向は庄内に限ったことではなく、県は41(昭和16)年4月「県生鮮魚貝類臨時配給組合」を設立。県内に8支部を置いて配給を均等に行き渡らせようとした。
鶴岡市支部には小売業者159人が参加する予定だったが、「支部設置は鶴岡市の実情に合わない」とする132業者が、「鶴岡生鮮魚貝類配給組合」を結成する一方、14業者は「一方的な行為」として組合に参加せずに混乱する。
県が中に入って混乱を収拾するが、組合設置をめぐるトラブルも、魚の取り引きには、生活がかかる権益が複雑に絡むことと、零細小売業者にとって出資金の負担が重かったなどが混乱の理由だった。
リヤカーで三川まで
鮮魚類の配給制度徹底で活躍したのは、あばたちだった。自由に行商できなくなった多くのあばが、本来の行商をやめて配給物資の運搬に携わった。鶴岡市加茂の坂本冨野さん(88)も、そんな時代を経験した一人。県生鮮魚貝類臨時配給組合の支所の手配で、大山や三川町まで魚を運ぶ仕事だった。
加茂辺りのあばたちの多くが、港の支所に集まり、職員から運ぶ先と数量を告げられ、2人から3人ひと組になってリヤカーを引いて加茂坂を越えた。届け先は主に各地区の農協。そこで魚代金を受け取って支所に渡し、給料をもらった。
漁師不足で魚も5キロ箱3箱程度と少なかった。坂本さんは「普段はともかく、大雪で湯野浜から鶴岡行きの電車が運休すると3倍もの荷になって死ぬ思いで加茂坂を上った。今では笑って話せることになったが、当時は…」と振り返る。
(論説委員・粕谷昭二)
市民の食生活を支えたあばたち。夜店もあり、開店前に夕食の弁当を広げる=鶴岡市馬場町で、酒井忠明さん撮影、酒井家提供(左) 交通機関が発達していなかったころ、魚を入れたかごを担ぎ湯野浜から街場に走った=鶴岡市、相馬寿子さん提供
2009年(平成21年) 11月12日(木)付紙面より
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森の産直カー事業などを展開する「つるおか森のキャンパス推進協議会」は、在来作物を使ったレシピ集「はたけの味」を作製した。今年1月に発行した秋・冬編の続編として春から夏にかけて収穫される孟宗や民田ナスなど5品目の作物について、伝統的な調理方法に加え西洋風で新感覚の創作料理も収録。11日から森の産直カーの販売時や常設している山王食鮮市で配布を始めた。
国の元気再生事業に採択された「つるおか森のキャンパス元気プロジェクト」の一環で、地元の在来作物への理解と消費拡大につなげようと、山形在来作物研究会(会長・江頭宏昌山形大農学部准教授)の監修で作った。取り上げたのはバンケ、アサツキ、孟宗、民田ナス、アケビの5品目でそれぞれ3種類、計15種類の料理を載せた。
同市西荒屋の農家民宿・レストラン「知憩軒」の協力で、伝統的な料理を「母の皿」、新感覚の創作料理を「娘の皿」として紹介。定番や伝統的な料理ではバンケ味噌、アサツキの酢味噌あえ、孟宗と厚揚げ味噌粕煮、民田ナスの浅漬けなど、創作料理ではバンケとジャガイモ、タマネギ、トマトジュースを使った「春の薫りの冷たいスープ」、アサツキのキッシュ、孟宗とモッツァレラチーズの生ハム巻き、アケビとベーコンのクリーム煮などのレシピを写真とともに掲載、おいしく作るためのポイントも分かりやすく解説している。
巻末には在来作物を販売する庄内地域の産直施設20カ所の住所や連絡先などと、各施設で取り扱う作物の情報も掲載した。「娘の皿」の料理を担当した知憩軒の長南みゆきさんの一押しは孟宗の生ハム巻き。「子供のおやつやビールのつまみにもなり、子供から大人までおいしくいただけるはずです」と話す。
先に発行した秋・冬編ではだだちゃ豆や温海カブ、庄内柿など5品目・15種の料理を紹介しており、今回の発行で「はたけの味」シリーズは合わせて10品目・30種となった。監修に当たった在来作物研究会の平智山大農学部教授は「在来作物は多くの人に食べてもらうことで守られるものであり、レシピ集は家庭でできる料理を基本にまとめた。可能ならば、取り上げる作物と料理を増やして1冊にし、庄内地方の食文化の発信につなげていきたい」と話している。
レシピ集「はたけの味」はA5判、24ページ。2000部を発行。森の産直カーや同市の山王通りに開設している山王食鮮市、知憩軒、市地域振興課で希望者に無料で配布する。
在来作物を使った料理を紹介したレシピ集「はたけの味」の続編が発行された
2009年(平成21年) 11月12日(木)付紙面より
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大みそかから元旦にかけて羽黒山頂で行われる出羽三山神社の松例祭で使われる綱づくりが10日、おひざ元の鶴岡市羽黒地域の広瀬公民館で行われ、地区の男性たちが長さ21メートルの綱をなった。
松例祭は出羽三山神社最大の祭りで、ツツガムシをかたどった綱を手向地区の男衆が引き合い、五穀豊穣(ほうじょう)や無病息災などを願う。綱は庄内各地から奉納される。
広瀬地区では10年ほど前から地区公民館を拠点に活動するわら細工の会(岡部進会長)が奉納。今年も会員が育てたもち米を干して長さ2メートルほどのわらを用意し、前日にわら打ちをするなど準備をしてきた。
この日は60代から86歳までの男性13人が参加。用意した200把のわらを使い、午前9時すぎから直径約12センチ、長さ21メートルの綱を作り始めた。綱が長くなると、2台の脚立に棒をかけてその上から綱を下げ、メンバー3人が「そーれ、よいしょ」の掛け声で力強くなっていった。
約2時間半の作業で完成。岡部会長は「今年はいいわらができ、青々としていい綱ができた」と満足そうな表情を浮かべていた。
「そーれ、よいしょ」の掛け声で威勢よく綱をなっていった