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荘内日報ニュース


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2009年(平成21年) 5月14日(木)付紙面より

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庄内浜のあば 悲哀と快活と歴史と ―10―

男は好漁場めぐり争う

1・5世帯に1隻

 1915(大正4)年発行の『西田川郡水産誌』(西田川郡役所刊)によると、同年当時の最上川以南22漁港の総漁船数は1705隻。大小の別を問わず1・5世帯に1隻の割合で船を持っていた。沿岸集落で漁業に生計の多くを依存していたことが分かる。

 各村別の漁港・漁船数などは次の通り(戸数、漁船数、漁協組合員数)。【念珠関村=鼠ケ関、早田、小岩川、大岩川】(424・332・222)【温海村=釜谷坂、温海、米子、暮坪、五十川】(303・161・162)【豊浦村=堅苔沢、小波渡、三瀬、由良】(640・432・260)【加茂町=油戸、今泉、加茂、金沢、宮沢、湯野浜】(763・335・449)【袖浦村=浜中、十里塚、宮野浦】(501・445・332)

 西田川郡水産誌と違うデータだが、1896(明治29)年ごろの最上川以北の漁村は次の通り(総戸数・漁家)。【酒田町=新町、船場町、高砂、宮海】(707・345)【遊佐町=比子、菅里、吹浦】(601・397)【飛島村】(162・162)

騒動に警察出動

 庄内浜71キロの沿線に28村があり、各漁村の前海の漁場だけでは当然足りなかった。特に岩礁があった湯野浜から鼠ケ関までは「山浜通り」と呼ばれる好漁場で、江戸時代から村境を越えての漁場争いが絶えなかった。

 1923(大正12)年2月の山形新聞には、「豊浦村沖 漁船八十余隻 入り乱れて相戦ふ」と、壇ノ浦の源平戦に例えて洋上騒乱を報じ、その2日後に「豊浦沖船合戦の関係者百七十六名、騒擾(そうじょう)罪で送検さる」との記事が載っている。容疑の騒擾罪とは、多人数が集合しての暴行、脅迫行為などのことだ。

 記事によれば、争いの発端はイカ漁中の漁師の口論。2月11日午前7時半ごろ、豊浦村由良から50隻、同村堅苔沢から30隻が旗をなびかせて堅苔沢の約8キロ沖に向かい、双方船を衝突させ合っての争いになった。

 庄内浜では昔からタラ漁が大きな収入源。1820(文政3)年3月、遊佐町吹浦と飛島の漁師が、飛島にやや近い「タラ場」を巡って漁網・漁具を奪い合いになった。1932(昭和7)年1月には由良沖で密漁した加茂の船を由良の漁師が見つけ、加茂の船に乗り込んで魚箱を奪い取って警察に届けた。この様子を、鶴岡日報は「由良沖で船合戦 機船追突して修羅場」と報じている。

 1926(大正15)年6月には、温海町の漁師12人が五十川沖で個別にタイ延べ縄漁中、鶴岡市の発動機船の錨(いかり)に縄を引っ掛けられて切断される事件も起きている。

粟島沖にも出漁

 庄内沖の漁場だけでは足りず、1903(明治36)年には魚市場を手掛ける荘内水産会社が、新潟県岩船郡水産会社に3000円を支払い、西田川郡海岸漁業組合の漁船の、粟島北方沖への出漁権を得ている。イカやタラの好漁場だった。

 海の男たちが漁場争いや、隣県から出漁権を買ってまで漁をしようとした背景には、魚が売れ出してあばの稼ぎが増えてきていることからでもあった。

(論説委員・粕谷昭二)

庄内浜最初の漁港・小波渡漁港の改修工事(大正3年ごろ=西田川郡水産誌から)(左) 大正時代の激しかった漁場争いの様子を伝える新聞
庄内浜最初の漁港・小波渡漁港の改修工事(大正3年ごろ=西田川郡水産誌から)(左) 大正時代の激しかった漁場争いの様子を伝える新聞


2009年(平成21年) 5月14日(木)付紙面より

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一足早く「天神祭」 化けもの姿に変身

 鶴岡市の天神祭の由来などを小学生に紹介する「出前講座」が13日、同市の朝暘第二小学校(三浦洋介校長、児童525人)で行われ、子供たちが化けもの姿を体験するなど一足早く天神祭の雰囲気に触れた。

 出前講座は、庄内三大祭りの一つで鶴岡天満宮の例大祭の天神祭に理解を深め、祭りへの積極的な参加につなげようと、天神祭実行委員会企画委員会広告宣伝部会(山之内潔部会長)が企画し、2003年から市街地の小学校のうち1校を訪れ、毎年行っている。

 同校のランチルームで行われた講座には4年生96人が参加。同部会のメンバーら5人が祭りの主役・化けものに扮(ふん)して登場し、菅原道真公と祭りの関係や化けもの誕生の由来などを説明。「化けものを知っている人は」の問いかけには、学区内に鶴岡天満宮があるおひざ元の小学校だけにほぼ全員が手を挙げた。

 この後、各クラスの代表が部会員や仲間に手伝ってもらい化けものに“変身”。「暑いですか」の問い掛けに無言でうなずくなど化けものの仕来たりを守り、クラスの仲間たちにジュースをついで回り、祭り気分を体験した。

化けもの衣装に着付けてもらい、天神祭の雰囲気に触れる朝二小児童
化けもの衣装に着付けてもらい、天神祭の雰囲気に触れる朝二小児童


2009年(平成21年) 5月14日(木)付紙面より

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晴れの舞台へ磨き立て 酒田まつり 市職員が大獅子洗う

 庄内三大祭りのトップを飾る酒田市の酒田まつり(本祭り20日)まで1週間と迫った13日、恒例の「大獅子洗い」が行われ、市職員が山車(だし)行列でくねる大獅子の汚れを落とし、きれいに磨き上げた。

 酒田大火(1976年10月29日)からの復興記念式と復興宣言が行われた79年、酒田のさらなる発展と災害防止の願いを込め、悪病・災害よけの「霊獣」として民間信仰の対象だった「大獅子」が黒、赤2体ずつ計4体製作され、酒田まつりの山車行列で初めて街中を練り歩いた。

 その後、仔(こ)獅子4体も作られ、「大獅子ファミリー」を形成。普段は大獅子2体は中町モール、6体は市役所正面出入り口前に飾られている。毎年、酒田まつりの山車行列に参加し、「健康に育ってほしい」という願いを込め、親が子供を大獅子の口の中に入れてかんでもらう光景が恒例となっている。

 この日は市観光物産課の職員4人が午前10時から約2時間かけ「ファミリー」8体を清掃。職員たちは脚立を立てて獅子の上に上り、水を掛けた後、デッキブラシでこすったり、ぞうきんで隅々まできれいにふいていた。作業を間近で見ていた来庁者は「きれいになたの」と話し、近づく祭りに心を弾ませていた。

 祭り当日の山車行列は午後1時、中合清水屋店前を出発する予定。

市職員たちが大獅子洗いに精を出した=酒田市役所
市職員たちが大獅子洗いに精を出した=酒田市役所



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