2011年(平成23年) 6月17日(金)付紙面より
ツイート
雇われているのはどっち? 小山 浩正
農学部の同僚である江頭宏昌さんの在来作物にかける情熱とフットワークにいつも舌を巻いています。伝統継承にかける獅子奮迅の活躍ですが、何よりご自身が楽しんでいるようにお見受けします。どこまでが仕事で、どこまでが趣味なのか。そんな野暮な仕分けは、おそらくご本人にはないのでしょう。自ら望む行為が他人(ひと)のためにもなる。そんな幸せな関係を私たちは自然界でも見かけます。
例えば花と虫の関係。トチノキは小さな花を房状に連ねてマルハナバチを招きます。機会があれば花をよくご覧になってみてください。黄色い斑点と赤い斑点の花が見つかるはずです。それは蜜標と呼ばれるマークで、黄色い花はまだハチの訪問を受けておらず盛んに蜜を作っていますが、受粉が終わると赤くなって蜜も出さなくなります。つまり、蜜標の色でハチに報酬の有無を知らせ、訪花が必要な花へ巧みに誘導しているのです。もちろん、それはハチにも有り難い情報です。まるで「空車」と「満車」の信号で車を誘導する駐車場のようで、見方次第ではトチノキがハチを操っているかのごとくです。
一方、同じ動物を雇うにしてもドングリはもっと際どいやり方で命をつなぎます。ご存じのように、ネズミやリスが冬に備えてあちこちに運んでは埋め、それが食べ損なわれた場合にのみ芽生える権利を得ます。運び屋を雇う代償として犠牲が出るのは覚悟の上。身を削った春の迎え方と言えるでしょう。
そして、ついに今年もまばゆい初夏をむかえました。山の頂から庄内平野を見下ろせば、ことごとくが水田で埋め尽くされた鏡張りの万華鏡。水面(みなも)の乱反射に目を細めながら、私はいつも先人の偉業に感嘆するのです。昔、水稲技術を携えた人々が広大な土地を伐り開き、水を引き、育種改良を施しては巧みに稲を導きながら育んだ穀倉の海原…
でも、ちょっと待ってください。それは大いなる勘違いで、巧みにやっているのはむしろ稲の方かもしれません。なにせ、私たちは毎年彼らのタネを播いては丁寧に植えてやり、ライバルの雑草や天敵も追い払って、栄養状態まで心配しているのです。奉仕しているのは我々なのでは? 庄内平野は赤川の氾濫原で、元はハルニレやヤナギの森が広がっていたはずですが、今はすっかり田んぼです。ヒトが望んでそうしました。しかし稲から見れば、人間という賢い重機を操って自分たちのニュータウンを造成させたとも言えます。「こっちが食っているのだから操られているわけがない」ですって? だけど、ドングリだって同胞の多くが食われることを承知でネズミを操っているのです。残された種籾が翌春に命をつなぐのと何ら違いがありません。ネズミがドングリに使われているのに、私たちが稲に雇われていないと言い切れるでしょうか。
そう考えると、庄内の在来作物は江頭さんをはじめとする最良・最強の人々を雇って復活しつつあると言えます。かくいう私も、ブナの忠実な下僕(しもべ)として、しゃかりきに働かされています。幸せだなぁ。
(山形大学農学部教授 専門はブナ林をはじめとする生態学)