2023年(令和5年) 4月14日(金)付紙面より
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鶴岡市の致道博物館(酒井忠久館長)は12日、戦国時代に徳川家康とともに「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉と戦った織田信長の次男・信雄(のぶかつ)が、合戦後に家康へ宛てた書状を報道陣向けに初公開した。家康と秀吉との緊張関係が続くさなか、家康に対し秀吉への臣従を促し、和睦を仲介しようとしている内容。「天下取り」を巡る緊迫した状況とともに、家康が秀吉との決戦か、それとも関係修復に向かおうとするのか重大な局面を前に悩みを深めていた様子がうかがわれ、当時の時代背景を知る上で貴重な史料という。
書状は旧庄内藩士で藩主家の剣術指南役を務めた石川猪太夫(いだゆう)家に伝来し、2013年に石川家から市郷土資料館へ寄託された約600点の史料の中から発見された。昨年の酒井家入部400年記念のシンポジウムで来鶴した複数の歴史研究家の分析や、大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を務め、信雄の研究も進めるなど戦国史に詳しい柴裕之東洋大文学部非常勤講師の分析で、真筆であることを確認した。写しなどもなく、これまでの研究では存在自体が知られていなかった書状という。縦約16センチ、横約96センチの巻物の状態で伝わっていた。
1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いの後、すでに秀吉と和睦していた信雄が85(天正13)年10月14日に家康へ送ったとされる。書状で信雄は、家康が交渉役として重臣の石川数正を秀吉に参上させ、今後について相談しようとしていることは良いことだとした上で、この件ついては秀吉も家康の考えを承知しており、慎重にことを進めるだろうと記し、織田家側から秀吉と家康の合戦を回避させようと働き掛けた内容。この書状の後、家康は秀吉との合戦をいったんは決断したものの、中部地方を襲った大地震の影響もあって両者は和解へと進み、家康は86(天正14)年に秀吉への臣従を示した。
発見された書状について、柴氏は「織田信雄の活躍が分かる貴重な史料。今までは徳川方は秀吉との関係構築を断固拒絶していたとされていたが、調整を図ろうとしていた事実があった」、同じく「どうする家康」の時代考証を務める平山優健康科学大特任教授は「すごい史料の発見。家康が開戦を決意する直前の息詰まる交渉の経過がよく分かる」とコメントした。
史料の分析に当たった致道博物館の菅原義勝主任学芸員(36)は、「伝来の経緯は不明だが、徳川家臣団筆頭として諸藩との外交的な差配を進めていた酒井忠次が所持していた可能性もある」とし、「歴史の転換点に記された書状で、今回の発見によってさらに研究が深まることを期待している」と話した。書状は今月29日に同博物館で始まる特別展「徳川家康と酒井忠次」で一般公開される。