2024年(令和6年) 11月30日(土)付紙面より
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奥州藤原氏の重臣として庄内南部一帯を治めた武将「田川太郎行文(ゆきぶみ)」の縁で、鶴岡市の田川地区と岩手県一関市東山町田河津(たこうづ)地区の相互訪問交流が実現した。両地区には、源頼朝の鎌倉軍勢と戦い討ち死にした行文の墓の伝承があり、「田川」は一関の田河津の地名の由来ともされている。昨秋の田川地区住民による初の田河津訪問をきっかけに、田河津住民による田川地区の視察研修が今秋に行われ、田河津から持参した土を行文の墓にかけ、行文と田川一族を弔った。
田川氏一族は平安時代後期、郡司に任命され、田川地区を拠点に栄えた豪族。源義経追討の命から起こった奥州藤原氏と源頼朝の鎌倉軍が争った1189(文治5)年の奥州合戦で、藤原氏4代泰衡(やすひら)の重臣だった行文は、新潟を経て鼠ケ関から進軍してきた比企能員(ひきよしかず)ら鎌倉軍の軍勢に敗れて討ち死にし、一族は滅亡したとされる。
行文の家臣・曽我三郎は、さらし首にされた行文の首をひそかに持ち帰り、藤原氏の拠点・平泉が一望できる束稲(たばしね)山の麓に埋めた。この場所が「田河座」と呼ばれ、現在の田河津の地名になったとされる。さらに、行文を弔うために庵(いおり)を結んだ場所に曽我寺という寺が建立されたと伝えられている。
田川地区には行文の墓や田川氏一族の墳墓群、館跡などが残り、田川地区自治振興会(三浦総一郎会長)は田川太郎の歴史にスポットを当てた地域づくりを進めている。こうした中で行文とつながる田河津の歴史を知り、昨年10月に田川地区の関係者が田河津を訪れた。この際、田川地区から両地区の相互交流が提案された。
田河津からの一行は、田河座や曽我寺址がある矢の森自治会(菅原理会長)の有志22人で、先月26日に田川地区を訪問。行文の墓や一族の墳墓群などを訪れ、曽我寺址から持ってきた土をかけ、読経して手を合わせた。両地区にはそれぞれ代々受け継がれている「墓守」の家があり、田川の齋藤家と田河津の千葉家の関係者も初対面した。
引き続き交流会が田川コミュニティセンターで開かれ、両地区の関係者が懇談。互いに800年の時を超えた縁に思いを巡らせ、東北の地で栄華を誇った奥州藤原氏にまつわる歴史ロマンが結ぶ親交を深め合った。
初めて田川一族の本拠地を訪れた矢の森自治会の菅原会長は「田河座の土を行文の墓にまいて首と胴体を一つにして供養することができ、齋藤家と千葉家の歴史的対面も実現できた。とても良い交流ができた。地元の若い人たちにも800年の時を超えた歴史ロマンをきっちりと伝えていきたい」と話した。