2021年(令和3年) 12月28日(火)付紙面より
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今シーズン限りで現役を引退、先月に福岡ソフトバンクホークスの一軍打撃コーチに就任した長谷川勇也さん(37)=鶴岡四中、酒田南高出=へ「感謝する会」が26日、鶴岡市東原町のグランドエル・サンで行われた。スポーツ少年団などや社会人野球関係者ら合わせて約100人が参加。右足のけがと戦いながら全力プレーで夢と感動を与えた長谷川さんのプロ生活15年をたたえた。
感謝する会では「長谷川勇也選手を応援する会」の佐藤光雄会長が「特に首位打者と最多安打を獲得した2013年の活躍はすばらしかった。最終戦の日本ハム戦を観戦し『ぜひとも200本安打を達成してほしい』と願いながら応援した記憶が忘れられない。私たちの心に夢と希望、感動を刻んだプロ野球選手でもある。(引退と同時に応援する会は発展解消となるが)これまでと変わらず応援していきたい」とあいさつした。
この後、関係者が長谷川さんに花束を贈呈。訪れた人たちは一緒に記念撮影をしたり、感謝の気持ちを伝えた。
壇上に立った長谷川さんは「一年一年勝負と思って頑張ってきた。多くの人たちに支えてもらい、一つの悔いもなくユニホームを脱ぐことができた。今後は打撃コーチとして一人でも多く『ファンの心を打つ選手』を育てたい。これまでと同様、鶴岡から見守っていただければ」と語った。
会場では、福岡で行われた引退試合(日本ハム戦)とセレモニーの模様がモニターに映し出され、集まった地元ファンは最後の打席で二ゴロに倒れながらも全力疾走で一塁にヘッドスライディングした長谷川さんの姿を目に焼き付けていた。
2021年(令和3年) 12月28日(火)付紙面より
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鶴岡市長の皆川治氏(47)が2017年10月の市長選期間中に受領した現金100万円の寄付を選挙運動費用収支報告書に記載しなかった問題で、市議会は27日、議員全員協議会を開いた。出席した皆川氏は書面を用意し、記載しなかったことについてあらためて陳謝するとともに、「引き続き市長の職務を果たし、一定のけじめ、責任の取り方については、なおよく考えていきたい」と述べた。協議の中では皆川氏の市長辞職を求める意見も出された。
皆川氏は4年前の選挙期間中の現金100万円の寄付について、「自己資金」の立て替えとして自身の会計責任者に渡して選挙運動資金に充てられたと、説明。今月22日の報道陣の取材に対し「寄付は使っていない」としていた説明を修正した。
さらに受領から4年後の今年8月28日、今回の市長選間近になって寄付をした支援者宅に100万円を届けたことについては、「寄付を返金すれば、受領しなかったことにできるのではないかとも考え、それによって寄付が収支報告書に記載されていないことへの非難を回避したいと考えた」と理由に触れ、未記載による法令違反状態を返金によって解消しようとの意思を持って100万円を置いてきた、とする認識を示した。結果的に返金によって、「(公職選挙法で禁止する)政治家からの寄付に該当する恐れが生じてしまったことについても、重ねておわびします」と陳謝した。
議員からは「支援者は返金する前に2回、返金した当日も収支報告書に記載すべきだと皆川氏に求めたとしている」との指摘もあった。これに対して皆川氏は「その点の記憶は、はっきりしない」と繰り返した。
議員からは「経緯からすれば、選挙資金の裏金の隠ぺいを図った行為だ」「自らの保身のための幼稚な考え方だ」との指摘もあり、「今後、市議会として事実関係をさらに精査していく」といった意見が相次いだ。
2021年(令和3年) 12月26日(日)付紙面より
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年明けに迎える旧庄内藩主酒井家の庄内入部400年の節目の年を前に、入部後に整備された居城「鶴ケ岡城」の遺構の一部が確認された。鶴岡市馬場町の道路工事現場で、同市の金峯山で採掘された花こう岩類の「金峯石(きんぼういし)」を含め、城の防御拠点「馬出(うまだし)」の石積みに使ったとみられる約30個の石が出土した。市は入部400年記念事業との関連も含めて、石の活用を検討する。
遺構が見つかったのは、山形地方裁判所鶴岡支部の敷地だった道路拡幅部分で、同市教育委員会が今月の工事立ち合いの際に確認し、24日に発表した。約4・4メートル×約7・7メートルの範囲を地表から約40センチ掘り下げたところ、石積みが現れてきた。出土した石の大きさは最大70―80センチで、20個ほどが金峯石とみられる。現在は、同支部敷地内に移して保管している。
同所は文化財保護法に関連した鶴ケ岡城跡の「周知の埋蔵文化財包蔵地」。文献などから鶴ケ岡城の整備には、金峯山から運んだ石が使用されていたことが分かっており、市教委は今回の調査でその状態が確認されたとしている。
馬出は城の出入り口前に敵を引きつけ、城兵との挟撃を狙う防御拠点で、鶴ケ岡城の古絵図には土塁や石垣、堀が描かれている。1622年の入部で酒井家の居城となった後、二の丸大手前に、大手門築造後の1650年代頃に造られたとみられる。城は1876(明治9)年に取り壊され、馬出があった場所も埋め立てられた。
市教委は「これまで絵図でしか存在が分からなかった馬出の遺構が確認されたことは、400年近く前の城の整備を知る上で意義深い」としている。