2023年(令和5年) 6月6日(火)付紙面より
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酒井家庄内入部400年(2022年)から、庄内の歴史と文化を次の100年につなげる「NEXT100」事業の歴史講演会が3日、鶴岡市中央公民館で開かれた。NHK大河ドラマ「どうする家康」で時代考証を担当する2人の研究者を講師に招き、徳川家康と庄内藩主酒井家の祖・忠次が生きた戦国時代について市民などが学んだ。
酒井家庄内入部400年記念事業実行委員会(委員長・皆川治鶴岡市長)主催、致道博物館共催。鶴岡市民をはじめ周辺市町や内陸、東北各県、東京など首都圏、大阪府、京都府から合わせて約300人の歴史ファンが足を運んだ。講師は東洋大文学部非常勤講師の柴裕之さんと健康科学大特任教授の平山優さんが務めた。初めに柴さんが「家康と忠次―二人が歩んだ徳川家の戦国時代―」と題し講演。家康と忠次のルーツを解説するとともに、桶狭間の合戦後に三河国(現在の愛知県)を平定し織田信長と盟約を結んだ経緯を語った。
柴さんは「家康を支え続けたのが忠次ら家臣団だった。特に忠次は家康の叔母を正妻に迎え、親類待遇を受けていた。背景には家康からの信頼の強さがうかがえる。三河平定後は徳川家の旗頭(軍事指揮官)として数多くの合戦や外交に臨んだ」と述べた。
続いて平山さんが「家康VS武田信玄・勝頼―戦争と外交―」と題し、家康を最も苦しめた武田家との10年間に及ぶ戦いについて語った。家康にとって生涯最大の危機となった三方ケ原合戦について平山さんは「一時は三河国の3分の2を侵略した信玄に、家康は『侵攻を見過ごせば三河・遠江の武士たちは武田についてしまう』と考え、出陣せざるを得なかった。信玄の戦略は家康の本拠地・浜松城への補給や援軍を断つことだった」と解説。さらに信玄の跡を継いだ勝頼と織田・徳川連合軍が争った長篠の合戦などにも触れ、「10年に及ぶ武田家との争いは信玄との戦いが半年で勝頼とは9年半。勝頼こそが家康にとって最大のライバルだったと言える」と語った。
講演後は「時代考証から見た家康と忠次」をテーマに、柴さんと平山さんが対談。事前に聴講者からアンケートを取った中で最も質問が多かった家康の正妻・築山殿と嫡男の信康によるクーデターについて、2人は「武田家も関わっていた可能性がある事件。武田派と織田派に分かれていた徳川家をまとめ、息子を守りたい一心で築山殿は家康に背いたのではないか」と話した。