2006年(平成18年) 4月9日(日)付紙面より
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庄内地方の86小学校のうち40校で8日、入学式が行われた。スーツやワンピースで着飾った1年生たちがピカピカのランドセルを背負って初登校、学校生活の第一歩を踏み出した。
鶴岡市の大山小学校(齋藤雅志校長、児童391人)では、男子28人、女子31人の合わせて59人の新入生が、在校生や保護者たちの拍手に迎えられ体育館に入場。担任の先生に一人一人名前を呼び上げられると、大きな声で「はい」と返事をしていた。
齋藤校長が「今日から皆さんは大山小学校の1年生。先生や在校生も、皆さんが入学してくる日を楽しみにしていました。これからの学校生活を楽しみにしていてください」と祝福。6年生の三浦耀介君が「大山小には、学芸会や高館山登山などたくさんの行事があります。楽しい思い出をいっぱいつくりましょう。分からないことがあったら僕たちに話してください。丁寧に教えてあげますよ」と歓迎の言葉を述べた。
閉会後は在校生たちが歓迎の合唱「ウィズ・ユー・スマイル」を披露した。会場の保護者たちは入学式のわが子の姿を残そうと、カメラやビデオカメラを向けていた。
在校生や保護者たちの拍手に迎えられ、入場する新入生たち=鶴岡市の大山小
2006年(平成18年) 4月9日(日)付紙面より
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庄内地方の高校野球ナンバーワンを決める平田杯野球大会の創設者・平田吉郎翁の孫で大会名誉会長の平田正さん(78)は大会80周年の区切りとして、記念誌「平田杯80年のあゆみ」を出版した。平田さんは「大会の歴史であり、自叙伝でもある」と語り、大会の歩みを追うだけでなく、祖父や父、自らの人生を振り返りながら、太平洋戦争前後の庄内や日本の変遷についてもまとめている。
平田杯は1927年、鶴岡野球協会(現鶴岡野球連盟)会長だった平田翁が夏の甲子園大会予選に「出れば負け」の繰り返しだった庄内勢の不振を見かね、東京・銀座の服部時計店に純銀製の大カップを注文、優勝チームに贈ることにした。庄内地方に球春を告げる大会としてファンに愛され、今年で80回目を迎える。
平田さんは、記念誌発刊に向け、昨年秋ごろから約4カ月かけて資料を収集。今年1月にまとめの作業を開始。1カ月ほどかけて草稿を仕上げた。校正を重ね、先月30日に完成した。B5判の全62ページで、関係者に配布する。
記念誌は、田川地区高校野球連盟の成田勇会長の前文で始まり、平田さんと大会にかかわった関係者8人の寄稿による『平田杯の思い出』、明治―昭和後期、現代にかけての時代の変遷や庄内と野球のかかわりなどをまとめた『平田杯物語』、全国高校野球春夏の各大会記録、平田杯沿革、戦前の鶴岡中学校チームや祖父、父の貴重な写真などが収録されている。
『平田杯の思い出』の寄稿者は、鶴岡オールドボーイズ名誉会長の山路勝信さん、1939年に鶴岡中で投手を務めた竹沢進一郎さん、前鶴岡野球連盟会長の小池淳さん、酒田野球連盟会長の西塚寛さん、元鶴岡工野球部部長の神尾和秀さん、元南海ホークス投手で54年に鶴岡工野球部主将を務めた田沢芳夫さん、53年の酒田商工(現酒田商)投手の柴田養一さん、65年の加茂水産投手の五十嵐政三さん。
いずれも平田杯や県大会、東北、奥羽大会、甲子園出場などにおける青春の思い出をつづっている。このうち、五十嵐政三さんは「わが青春『平田杯』」と題し、1963年の加茂水産高と平田杯の様子を記した。当時、先輩・後輩の縦社会は厳しく鉄拳制裁が日常茶飯事だったという。しかし、「それが伝統の一つにもなっていた。生徒は、みな我慢強く耐え、それをバネにして社会に巣立った。そのせいか、社会の第一線に出て直面する辛さも、厳しさも平気で乗り越えられる勇気と行動力を身につけていた」と振り返っている。
また、当時はグラウンドが狭く、フリー打撃で外野に飛んだ球が海へ落ち、海水着の1年生が交代で球拾いをしていたことや、漁業実習で全員がそろって練習する機会が少なかったことなどが記され、3年時の第39回平田杯(65年)で決勝へ進みながら、酒田商工に惜敗した思い出に触れている。最後に「私自身の野球魂は平田杯を機に目覚めたと言っていい」と結んでいる。
数々の寄稿を読み返しながら、平田さんは「戦後、庄内人の野球にかける思いは並々ならないものがあった。現在、高校からプロ野球に直結するケースが多く金銭的な話もからむ。学校教育の一環としての野球とかけ離れてきているのではないか」と指摘する。さらに「まだまだ地元の高校生は『甲子園に出たい』という気持ちが弱いと思う。野球に取り組むということはどんなことなのか、選手と教師、親が本気になって考えるべきではないか」と話した。
平田杯の歴史を凝縮した「平田杯80年のあゆみ」