2009年(平成21年) 6月10日(水)付紙面より
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独占商法に風穴開ける
不利益に反旗
藩政時代の魚の流通は、鶴岡城下の魚屋による「仕入浜(しいれはま)制度」で支配されていた。魚屋が藩主に納める上物の魚を確保することを名目に、漁師によそに売る脇売りを禁じ、浜の魚を独占しようと狙った仕組みだ。
城下上・下両肴町にある19軒の魚屋は、生活苦の漁師らに漁具調達資金を融通することで優位な立場にあった。このため漁師らを支配下に置くことは容易で、魚屋は個々に漁家・漁船を「仕入浜株」として持ち、22隻もの漁船を配下(仕入船)に持つ魚屋もいた。仕入浜株の権利は魚屋の都合で売買された。
仕入浜制度は、魚だけでなく漁家・漁船そのものが売買の対象として魚屋の利権に利用されることから、漁師側にとって好ましい制度でなく、漁師の不満がくすぶっていた。
このため鶴岡市小波渡や堅苔沢の漁師らは一方的な魚屋のやり方に逆らい、魚屋に売る以外に独自の販路を開拓して脇売り(触れ売り)の地域を広げ、1814(文化11)年には仕入浜になることを拒否する。魚屋は魚の輸送を一手に頼んでいた三瀬の馬車主らに漁師の監視を頼む。逆らう者に貸付金の一括返済を求めるなどの制裁を課すためだった。
この紛争は漁師側の要求が一部認められ、城下内での触れ売りを始めるが、これに仕返しするかのように魚屋は三日町(現本町一丁目)で昼食中のあばたちを追い払う実力行使に出る。それでも漁師やあばたちはこれに負けず、従属から自立への動きを強めていった。
幕府天領地の商人
一方、幕府天領地として、何かと城下側に対抗意識を持っていたのが大山商人。加茂、金沢、湯野浜の漁師のほか、肴町の魚屋でも仕入れて城下で売っていたが、資力を蓄えるにつれて魚屋の仕入浜だった小波渡や堅苔沢まで出掛け、隠れて魚の仕入れを始めた。
浜の漁師も城下の魚屋より高値で買う大山商人の存在は好都合だったが、当然トラブルになった。魚屋は「大山商人の隠れ買い付けで、藩主に納める魚の調達が困難になった」と、藩に申し出た。
藩は1795(寛政7)年、仕入浜の権利を城下の魚屋は小波渡、堅苔沢▽大山商人は加茂、湯野浜、金沢、宮沢とする。残る由良、油戸、今泉、浜中は入会浜とする裁定を出すが、漁師とあば、大山商人の行動は、独占状態の魚屋商法に風穴を開け、魚の流通形態を変えさせた。
酒田でも騒動
似た騒動は酒田でもあった。「宮海の歴史」(宮海自治会編)によれば、遊佐郷8カ村から多くの触れ売りが入って来たことで、困った酒田町の魚屋12軒が1825(文政8)年5月、肝入りに頼んで町役人に裁定を頼んでいる。
どんな裁定で決着したか定かでないとしているが、江戸時代の仕入浜株は一株50両から300両で売買されていた。仕入浜の権利は、魚販売の独占による大きな利益につながるだけに、触れ売りの販売力は脅威だった。
触れ売りする浜のあばたちには、仕入浜制度に束縛されることなく商売を続けるたくましさがあった。
(論説委員・粕谷昭二)
由良港で船から水揚げされる魚。藩政時代の魚屋は仕入浜制度で魚を独占した(左) 魚を量るあば。たくましさは流通形態を変えさせた(昭和10年代、相馬寿子さん提供)