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荘内日報ニュース


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2009年(平成21年) 6月24日(水)付紙面より

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庄内浜のあば 悲哀と快活と歴史と ―16―

利権めぐり騒動つづく

路上市の始まり

 漁法の近代化で魚の流通量が増えると、魚屋と漁師間の従属関係が崩れ始めた。特に明治になって藩政下にあった城下の上・下肴町の魚屋の支配力が弱まり、町では新しい形の魚販売が始まった。

 「城下町鶴岡」(大瀬欽哉著)によれば、1875(明治8)年8月、浜のあばたちは担いできた魚を旧・十日町の道端に並べて自由に売るようになった。触れ売りとは違った、路上市場の始まりだ。

 路上市場には魚屋や仲買人が介在することもなく、路上の区割りなどをする世話人に少しばかりの手数料を払い、後片付けと掃除をきちんとするだけで商売できた。身元保証金の必要もなく、こうしたあばは明治中ごろに40人余いたという。

魚屋が会社設立

 鶴岡市が町制を敷いた89(明治22)年の人口は2万417人。人口増に伴って魚の需要も高まり、あばたちが売る安い魚は町の人にとって重宝で、路上市場には遠くからやって来る人も多かった。

 浜の漁師・あばたちによる路上市場の繁盛ぶりに目を付けたのが、両肴町の魚屋らの有志で、96(明治29)年7月、魚市場「鶴岡魚商合資会社」を設立する。道路事情も次第に改善され、温海町鼠ケ関(現鶴岡市)からの仕入れも可能になっていたことで、独自の販売方法開拓を狙っての会社設立だった。

 しかし、藩政時代の魚屋と漁師らの従属関係復活を感じさせるような鶴岡魚商合資会社の誕生は、路上市場で商売する漁師・あばらにとって不都合なことで、当然のように騒動が持ち上がった。

対立を県が収拾

 庄内浜では89年に、西田川郡内17漁港単位で漁業組合が発足していた。漁業組合は路上市場に魚を提供していたこともあって、全組合が結束して鶴岡魚商合資会社に対抗する「漁業組合鶴岡販売所」を設立、販売を巡って双方の競争・対立が始まった。

 両者の対立に、山形県が98(明治31)年7月、双方の組織を一本化する収拾案を示し、「庄内水産株式会社」を設立して決着する。鶴岡市馬場町の内川沿いにある「鶴岡魚市場」の前身だ。

 庄内水産の市場は、地元の魚の大方を取り扱い、33人の仲買人の競売で流通の一元化が図られた。しかし1922(大正11)年、仲買人で現在の手塚商店創業者・手塚寅蔵が新たに「県外産の魚を扱う」などとして魚問屋を開業し、他の仲買人との間で混乱する。

 手塚は「水産会社を介さない魚は販売しない」ことで一度は合意するが、「合意書に他県物を扱うと書いているが、沿岸物を扱わないとは書いてない」との文言を逆手に取り、沿岸物も売り始める。そこには、加茂港に3隻の漁船を所有している強みがあった。寅蔵のひ孫・手塚商店相談役の克也さん(65)は「商才があった人で、仲買でなく、ぜひとも卸の仕事をしたかったと聞いている」と話す。

 手塚に対抗して仲買人27人が「長印(ちょうじるし)鶴岡漁業組合」を設立し、手塚の魚を取り扱わないことを決めるなど、今の市場運営が軌道に乗るには時間がかかった。市場に絡む騒動は、魚販売の利権の大きさを物語るものだ。

(論説委員・粕谷昭二)

明治31年に開設された、庄内水産魚市場。内川に川舟が浮かび、川面には市場の看板が映っている=鶴岡市郷土資料館提供(左) 流通の仕組みも近代化された市場。日々新鮮な魚が取り扱われる(酒田市の県漁協本所)
明治31年に開設された、庄内水産魚市場。内川に川舟が浮かび、川面には市場の看板が映っている=鶴岡市郷土資料館提供(左) 流通の仕組みも近代化された市場。日々新鮮な魚が取り扱われる(酒田市の県漁協本所)



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