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2024年(令和6年) 7月17日(水)付紙面より

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清河八郎の人物像読み解く 佐高さん特別講演 運命に逆らって生きた“逆白波”の人

 本紙に「思郷通信」を連載している評論家・作家の佐高信さんを招いた特別講演会が15日、庄内町の響ホールで開かれ、同町出身の偉人・清河八郎の人物像を読み解いた。

 佐高さんは1945年、酒田市生まれ。県立酒田東高校、慶應義塾大学法学部卒。庄内地方の高校教師、経済誌の編集長を経て評論家に。経済をはじめ、政治、憲法、教育など幅広い分野で辛口の評論活動を続けている。東北公益文科大学客員教授。著書、テレビ出演など多数。

 清河八郎は1830(天保元)年10月10日、出羽国田川郡清川村(現・庄内町)に生まれた。幕末の激動期、諸外国から日本を守るため、対等な立場で交易を進めるべきと考え、横浜の外国人居留地の焼き打ちを決行するなど尊王攘夷運動を推進。そうした行動があだとなり、34歳の若さで幕府側の刺客に暗殺された。清河が組織した浪士組を母体に、会津藩による京都警護の「新選組」、庄内藩による江戸警護の「新徴組」が誕生している。西の吉田(松陰)、東の清河と言われ、武も文も立つ人物といわれるが、松陰に比べ、あまり知られていない。

 佐高さんは清河と多くの人が知る西郷隆盛とを比較し、「2人はほぼ同じ時代を生きた。西郷は下級ではあるが薩摩藩士。清河は郷士で、藩士よりは比較的自由。自由だった分、藩という組織の動かし方には長けていなかった。また、清河は賊軍といわれた庄内藩の出身。西郷に比べ、名が知られていないのは賊軍出身ということがあるのでは。西郷は明治維新を成し遂げた歴史の勝者という側面と西南戦争に敗れた敗者の側面もある。それが人気の秘密だが、清河は勝敗がつく前に亡くなってしまった」とし、「勝者が残す正史において、敗者は消されていく。清河を描くときにはそれぞれの人の歴史観に異議申し立てをしなければならないのだろうと思う」と指摘した。

 続いて、司馬遼太郎と藤沢周平の対照的な清河観を紹介し「司馬さんは清河を山師と書いている。それは薩長主観に立つ歴史観だから。山師という言い方に憤激して藤沢さんは『回天の門』を書いた。2人を端的に表すと、『江戸城は誰が造ったか』という話があり、太田道灌と答える人と大工と左官と答える人がいる。司馬さんは太田道灌という答えを疑わない人。藤沢さんは大工と左官という答えを笑わない人。そういう違いがある。藤沢さんが清河に共感を寄せたのは、自身が長男ではない農家では厄介者とされる男だから。保障されない自由に共感したのではないか」と説いた。

 また、「清河が改革に何を望んでいたのかが大事な点。幕末の思想家・安藤昌益が『不耕貪食の徒』と言っているが、農民からみた武士や公家を指している。支配階級が変わるだけのものではなく、大勢を占める農民にとっての改革だったのか、清河はそこをどう考えていたのか、それが一番これから明らかにされなければならないこと。清河は本当に維新という新しい世の中が農民のためだったのか、その板挟みに直面する前に亡くなってしまったが、農民の味方になったのか、味方になる可能性はどうだったのかがポイントになる」と語った。

 「藤沢さんはエッセー集で石原莞爾、大川周明、清河八郎の3人を書いている。3人だけでなく、藤沢さんや平田牧場の新田嘉一さんもそうだが、運命に逆らってあえてその道を選ぶところがある。それは庄内という風土が関係しているのかも。運命に逆らって生きた“逆白波”の人。その逆白波の系譜の近世の先人が清河八郎ではないか」と結んだ。

 特別講演会は、清河八郎顕彰会(齋藤満会長)が主催し、約400人が聴講した。

講演する佐高さん
講演する佐高さん



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