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2022年(令和4年) 9月13日(火)付紙面より

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清河八郎は旅する思想家「ペリー来航事前に知っていた」八郎の先見性など解説

 幕末期の幕臣・山岡鉄舟や高橋泥舟を研究する岩下哲典・東洋大文学部教授の研究報告会「清河八郎と尊攘派幕臣」が10日、庄内町の響ホールで開かれ、清河八郎の先見性などについて解説した。

 岩下さんは1962年長野県生まれ。青山学院大文学部卒。国立歴史民俗博物館客員助教授、明海大教授を経て現職。歴史学博士。今回は鉄舟、泥舟の伝記執筆のため両者と親交の深かった清河八郎の調査・研究で庄内を訪れた。

 この日の報告会は清河八郎記念館が主催し、県内外の歴史ファンら約200人が参加した。

 岩下さんは「清河八郎は『旅する思想家』だと思う。西の吉田(松陰)、東の清河と言われ、武も文も立つ人物だが、松陰に比べ損をしており、あまり知られていない。松陰には藩主の庇護があり、清河にはそれがなかった。また、松陰には有名な弟子がいて、明治以降各分野で活躍したが、清河にはあまりいなかった。松陰に比べ先んじていた部分も多い人物」などと松陰と対比して解説した。

 清河八郎が1848(嘉永元)年に関西、56(安政3)年に九州を旅して見聞を高めたことを挙げ、ペリー来航前の動きとして「清河が父親に宛てた手紙を見ると、ペリーが来ることを事前に知っていた可能性が高い。漢学塾や九州諸藩の同志からの情報収集の成果だろう。旅で得た人脈がその後の情報収集や分析に大きな影響を及ぼしたと考える。尊王攘夷派で開明派ではないとされていたが、見直すべきでは。ペリー来航前においては松陰よりも清河の方が一歩先んじており、近代化への志向という点では先覚者」などと紹介した。

 来場者はメモを取るなど熱心に聞き入っていた。

岩下さんが清河八郎について解説した
岩下さんが清河八郎について解説した



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