2008年(平成20年) 2月7日(木)付紙面より
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“決心”は母の一言
「イサバ」。浜で揚がったばかりの魚を、檀家(得意先)に行商して歩く女性のことだ。「浜のアバ」とも呼ばれる。産地直送のはしりでもあったイサバの登録と更新は一代限り。権利を他人に譲ることはできない。高齢化で昔ながらの風情を残す“食文化の配達人”は、いずれ姿を消す運命にある。エネルギッシュなイサバだが、歴史の一時期は悲哀が伴った。引退して2年。「今も檀家が気になる」という、鶴岡市鼠ケ関、五十嵐富美恵さん(89)に、一代を語ってもらった。
「子供を死なしぇでいらいねもんだ」―。実母のこの一言が、イサバになる決心をさせた。35歳の時だった。
1931(昭和6)年3月、念珠関第一尋常高等小学校尋常科を卒業。12歳で農業と漁業を営む自営業の家に子守り奉公に出た。同級生46人のうち、高等科に進んだのは数人。男は大工か左官か漁師、女は子守り奉公か一部は紡績工場に働きに出る。当時は半ば決まったコースで、大きな自営業者はどこも働き手不足を補うため、子守りを雇った。
「まだ12歳。子供が子供を子守しているようだった」と話す、住み込み奉公の手当は盆3円と正月の5円だけ。子供心に「手当は年2回しかもらえないもの」と思った。その手当も全部実家に渡し、何か自分の物を買った記憶はない。
子供の時から勉強が好きで、学校の成績も上位。夢は学校の先生。山形師範に進みたかった。「父は造船所の木挽き職人。2男2女の2番目。貧乏な暮らしに、(進学など)とても親に言い出せなかった。『及ばぬ鯉の滝登り』。自分にそう言い聞かせてあきらめるしかなかった。親を困らせてはならない。まず、家のことを立て、親孝行することが先。我慢することは当たり前、まして女はだった」
子守り奉公は16歳で辞めた。樺太で開業する鶴岡市の眼科医に同行し、窓口で事務の仕事をするためだ。勉強好きだったことを知る、知り合いの紹介だった。「稼ぐことができる」と、ためらいはなかった。
親に呼び戻され、20歳で製材所の勤め人と結婚。3男4女が生まれるが、4番目の二女を、生後すぐ急性肺炎で失う。
行商を始めたのは、53(昭和28)年正月。一番下の3男が生まれて3カ月後だった。今でこそ「一言でいえば食うに困ってのこと」と一笑するが、物もらいと間違われるのが嫌で嫌で、イサバになりたくない一心で、男がする山仕事、建設現場でもがむしゃらに働いた。
「イサバになれば現金収入になる。街(鶴岡市)で食べ物を手に入れることができることは分かっていても、恥ずかしくて、死んでも行商はしたくないと思っていた」
食糧難の時代。戦争や海で夫を亡くした女性たちは、資本もいらず、荷を背負う体力さえあれば身ひとつで商売できるイサバに走った。
家が農家なら物々交換もできたろうが、夫が給料取りではそれもできない。給料はもらっても、食べ物がなくては生きていけない現実がつきまとった。6人の子供がひもじい思いをしているのを見かねた実家の母から「子供を死なせる気か。育てるためには何でもしねばねもんだ」と、厳しく叱責(しっせき)される。
二女を亡くしたのは、食料も物資も困窮した44(昭和19)年。母の言葉が胸に突き刺さった。
(粕谷昭二)
メモ イサバの歴史は古い。「わが郷土鶴岡」(鶴岡市刊)では、庄内藩は城下の上肴町と下肴町(ともに現本町)に魚問屋を置いた。魚の需要が増えた1671(寛文11)年には他町内の「市の日」でも魚が売られ、触れ売りも自由になった。1784(天明4)年にはイサバの始まりとなる売り子が34人いた。浜から荷車で夜明け前に運んで来た魚は鮮度が良く「日通(ひどお)し」と呼ばれ、値も高かった。
藤島駅のホームで大きな荷物を背負って帰りの列車を待つ五十嵐さん=提供・五十嵐富美恵さん