2008年(平成20年) 2月8日(金)付紙面より
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つらくとも生活の一部に
イサバを引退して2年。鶴岡市鼠ケ関の五十嵐富美恵さんは、「檀家(得意先)のことを思うと、あとしばらくは続けたかった」との気持ちは今も変わらない。死ぬほどなりたくなかったイサバだが、いつしか行商は日常生活の一部になった。つらい仕事ではあるが、時がたつほどに身も心もイサバに生かされていることに気付いた。今年90歳になるというのに、今でも未練が残る理由のひとつだ。
イサバ時代の一日は、過密スケジュールだった。今で言えば、過労死してもおかしくない激務だった。始めて間もないころは、午前2時半に起き、朝と昼の弁当を作って鼠ケ関駅午前3時半発の列車に乗った。大阪発青森行きの急行が、鼠ケ関駅で給水、給炭した後、鶴岡駅までは各駅停車になった。食糧難の時代。イサバや魚を待つ檀家のため旧国鉄が特別に運転ダイヤを組んでくれたのだという。
この列車に、行商を始めたばかりの五十嵐さんは空身で乗り込んだ。仲買人の権利がなく、漁協のセリに加わって魚を仕入れることができなかったためだ。同じような立場の人は何人もいた。仲買人の権利を得てからは、午前5時始発の一番列車に乗った。6両編成の下り列車のうち、後ろ3両は通勤通学列車、前3両はイサバ専用で「アバ列車」と呼ばれた。
午前3時半の汽車に乗るには理由があった。鶴岡駅前広場では、集まってきたイサバ同士が相対取り引きする青空市場が始まる。それぞれが行商に不足している品物を補い合うのだ。空身で来た五十嵐さんはここで商売の元手(品物)を買う。魚よりパン、菓子類などの食品を多く仕入れた。鶴岡市内の家々は、すでに檀家を持っている大勢のイサバの領分。入り込む余地はない。青空市場で仕入れた荷を背負い、五十嵐さんは再び列車に乗った。行き先は藤島。
ほかのイサバが入っていない、町中心部から離れた集落で檀家を開拓するためだ。20キロ余の荷を背負って1時間も歩き、横川などで檀家を開拓した。高価なリヤカーはとても買うことができず、数年後にやっと手に入れたのは、車輪が木製の荷車だった。
行商は、品物を売るというより、物々交換に近いこともあった。少しばかりの魚のほか、菓子類、季節によってはリンゴなどを売り、代金代わりにコメをもらうことも多かった。翌日の仕入れのための現金も必要だが、6人の子供を育てるため、まず食べる物を得ることが先だった。
藤島での行商を終え、鼠ケ関に戻るのは昼過ぎ。休む間もなく畑仕事や海藻採り、家事をして午後5時すぎには漁協のセリへ。いい魚を安くと、夜9時近くまでねばる。「セリは戦争だった」と現役時代を振り返る。
(粕谷昭二)
メモ 行商の秩序維持を目的に、1951(昭和26)年6月、「田川地方商業自治会連合会」(現在の田川地方行商協同組合)を設立。800人余のイサバが組合に加入した。駅前広場の青空市場は、一般の迷惑になると、組合員1人5000円を出資して新市場を建設。組合は「車内秩序の維持と交通道徳高揚の功績」で旧国鉄新潟鉄道管理局から、「衛生思想の向上に協力」で当時の鶴岡保健所から感謝状が贈られたこともある。
檀家から借りた車庫前で世間話をしながら商売する五十嵐さん。藤島で=提供・五十嵐富美恵さん