2008年(平成20年) 10月21日(火)付紙面より
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ゆざあったげさんめまつりが19日、遊佐町体育館周辺の広場などで開かれ、多彩な催しを楽しむ町民でにぎわった。
別々の日程で実施していた畜産フェスティバルとサケのつかみ捕り大会を一本化。新たに産業まつりを加えた秋の一大イベントとして町が昨年初めて開催した。
2回目となる今回は、町内の企業や団体など約60団体が出展。第1会場の体育館周辺にテントを開設し、収穫したばかりの野菜や手作りの漬物などを販売した。
来場者は、威勢の良い呼び声に誘われるように、新鮮野菜などを次々と買い求めた。新米のおにぎりや町が取り組む飼料米事業で育った豚肉のしゃぶしゃぶの試食コーナーも人気を呼んでいた。
第2会場の月光川河川公園の水路では、放流したサケのつかみ捕りが行われ、子供たちが歓声と水しぶきを上げながら逃げ回るサケと「格闘」していた。
新鮮な野菜類などを買う人でにぎわった
2008年(平成20年) 10月21日(火)付紙面より
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400年前の町の創始者・北爪九蔵の供養を鶴岡で実現―。群馬県高崎市にある九蔵(くぞう)町の住民有志が18日、町名の由来となった北爪家の墓地がある鶴岡市陽光町の総穏寺を墓参に訪れた。北爪家の子孫との“400年ぶりの再会”も果たした一行は「これまで抱いていた思いが同時にかなって感激した」と話していた。
九蔵町区長の石橋輝治さんらによると、北爪九蔵は江戸初期、高崎藩主・酒井家次に従い「大阪夏の陣」(1615年)に出陣、大阪城一番乗りを果たし酒井家の旗を城内に立てたという。この戦功で家次から高崎城下に町を与えられ、これが九蔵町の始まりとなった。
家次は大阪の陣の功績で5万石の高崎藩から10万石の越後高田藩主となり、家督を継いだ忠勝が信濃松代藩を経て庄内に入部。九蔵も藩主に従い高崎、高田、松代を経て庄内に移った。その後、北爪家は庄内藩の家臣として幕末まで酒井家に仕えた。
江戸初期の町名が現在まで続く九蔵町は、独自に「町誌編さんだより」を発行して町の歴史の考察に力を入れている。そうした中で町のルーツを探る北爪九蔵研究会が生まれ、以前から明らかになっていた九蔵の墓のある鶴岡への訪問を計画。併せて九蔵の子孫捜しを進め今年9月、青森県八戸市在住の北爪政征さん(65)にたどりついた。
九蔵の墓参に訪れたのは、石橋区長ら九蔵町の60―70代の住民など同研究会メンバー17人。一行は総穏寺で、八戸市から駆けつけた北爪さん夫妻と合流し、町の創始者の北爪家と町民が400年の時を超えて再会を果たし、北爪家の墓に花や線香を供え、江戸初期に成立した九蔵町の現在の姿などを報告した。九蔵の墓参に先立ち、高崎藩主でもあった家次がまつられている鶴岡市家中新町の大督寺にある酒井家墓所も訪れた。
九蔵町は、明治初期に群馬県内で最初の銀行とされる第二国立銀行高崎支店が開設され、昭和初めには高崎商工会議所が設置されるなど商都・高崎の中心の一角を担った。九蔵の屋敷内にあった「九蔵稲荷」は現在も地区の鎮守として祭られ、住民たちが毎年11月15日に例祭を開いている。
九蔵の墓参を果たした区長の石橋さんは「九蔵町は400年前に開かれた伝統のある町。その創始者の北爪九蔵の墓参りとともに、子孫の方とも対面でき、念願がかなった。善政を敷いた酒井公の功徳が、この日につながったのだとしみじみ感じた」と話した。
高崎市に先祖の名を冠した町があることを今回初めて知ったという政征さんは「先月、研究会の方から自宅に電話をいただき、経緯を聞いて驚いた。同時にうれしくなった。九蔵町の方々から墓参していただき、祖先の良い供養になった」と感慨深そうに話していた。
18日に庄内を訪れた研究会のメンバーは2泊3日の日程で、酒田市の本間家旧本邸、南洲神社、鶴岡市の旧藩校致道館、致道博物館、松ケ岡開墾記念館などを見学して庄内藩の歴史に触れ、20日に帰途に就いた。
北爪家の墓参に訪れた高崎市九蔵町の研究会メンバーら=18日、鶴岡市の総穏寺