2009年(平成21年) 3月13日(金)付紙面より
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浜で水揚げされたばかりの魚を売り歩く行商の女性。バイタリティーあふれる姿に、人々は「浜のあば」と親しみを込めて呼ぶ。まんじゅ笠をかぶってリヤカーを引く姿は、城下町・鶴岡市の風情によく似合う。藩政時代に始まり、食糧難の戦後は家庭の食卓を支えた。自分の体重より重い荷を背負い、言葉づかいは快活なあばだが、人に言うに言えないつらさを胸に秘めた人も多かった。そんなあばたちの悲哀・たくましさ・行商の歴史をたどってみた。
消えいく“食文化の配達人”
「あば」とは
「あば」。かつては庄内地方でごく日常的に使われていた母の呼称だ。今この言葉を耳にすることはまれになり、「あば」と呼ばれるのは、魚をリヤカーに積んで檀家(だんか)(得意先)を回って売り歩く行商の女性を言い表す意味合いとして残る。
「あば」を漢字でどう書くのか。地方出版物などには「阿婆」、「海女」、「若母」、「小母」が見られるが、いずれも当て字と思われる。
「あば」を辞書で引くと、出ているのは「網端(あば)=うき」。網の端を意味することから、魚網に付けるガラス球や樽(たる)のような「浮き」を指し、庄内でいうあばとはまったく違う意味だが、海と魚に関係している点では共通する。
妻であり母であり
あばについて、元県立鶴岡南高校教諭の富塚喜吉さんは『月刊庄内散歩』(東北出版企画)の「庄内女風土記」で、次のように書いている。
「『温海土産(安政4年、作者不詳)』という膝栗毛もどき滑稽(こっけい)本の中に『あばと申すは、すべて夫ある女を申す也』とある。しかし、おらえのあばと言った場合は自分の妻を指し、男が未婚であれば自分の母を意味する。街に住む者にとって、あばは蔑(べっ)称のように響くが、庄内浜では「シンショウ」(財布)を握る誇り高き主婦の座であり、語感が示すそのままに、たくましく生きる女性の呼称である。ともあれ、『あ』と『ば』が協和するエネルギッシュなこの音楽は、潮風に乗ると、そこはかとなくノスタルジアをくすぐるから妙である」と。
また、『酒田地方方言集』(斎藤邦明編)では「あば=魚売女」と、ずばり行商の女性だと記述している。
浜で捕れた魚を消費者に届けるあばは、新鮮さが自慢の産地直送(直売)の先駆けだった。まんじゅ笠をかぶり、リヤカーを引いて街を歩く姿は城下町・鶴岡の風情に似合っている。鶴岡市出身の作家、藤沢周平さんも短編小説『玄鳥』で、〈城下には朝のうち漁師の女房が魚を売りにくる〉と書き、『龍を見た男』の油戸の漁師の女房も、山を越えて城下まで売りに来た。
また、エッセーでは〈子供時代に威勢のいい浜の女子衆(おなごしょ)が、荷を担いで魚を売りに来た。筋子、塩引きの鮭、干鱈(ひだら)、身欠きニシンなどの塩干物を背負って来た〉と懐古している。
90歳に届く現役も
最盛期、庄内全域で800人を超すあばが活躍した。終戦直後は警察の取り締まりを受けながらも魚を運び続け、庶民の食卓を支えた。それもスーパーと車社会に押されてすっかり存在感が失われてしまった。
あばは一代限りの商売。今も90歳に届こうというあばもいる。しかし、見栄えが良くないことや、行商人登録の条件も厳しくなってこの道に入る人はいない。高齢化から年を追うごとに引退する者が増え、あばという言葉が日常的な会話から遠ざかっていくように、昔ながらの風情を残す“食文化の配達人”は、いずれ姿を消す運命にある。
(論説委員・粕谷昭二)
行商を終えて列車から降り、帰宅するあばたち=温海駅(現あつみ温泉駅)前で。昭和30年代前半・鶴岡市温海庁舎提供=(左) 狭い路地での行商。リヤカーの軽快さが発揮されるときだ(鶴岡市本町)