2009年(平成21年) 3月18日(水)付紙面より
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水屋が語る800年の歴史
奥州の武将が開村
庄内浜は遊佐町女鹿から鶴岡市鼠ケ関まで南北約71キロ。女鹿から同町吹浦と、同市宮沢から鼠ケ関間が岩場の磯浜、吹浦以南鶴岡市湯野浜までは砂浜。藩政時代の終わりごろにはこの間に28村と13の枝村の41漁村があった。
庄内浜で一番最初に開けた漁村は鶴岡市小波渡だ。地区の中央に一年中枯れることのないわき水・史跡「オミジャ」がある。「御水屋(おみずや)」がなまったもので、一段高い場所には、村を開いた「開村祖之碑」が立っている。
小波渡自治会と小堅文化財愛好会などの由来記によれば、開村は1195(建久6)年秋。その10年近く前、奥州信夫郡の領主、佐藤庄司基晴は、源義経が兄・頼朝に追われて北陸から鼠ケ関を経て奥州平泉に向かっているのを探し歩く途中、鶴岡市三瀬で義経の死を知り、自らも病を得た。基晴は孫・信通に「気比の大神(気比神社)の神命により一族はこの外浜で開村せよ。外浜には山中を通った霊泉がわき出し、これを守り漁業を営めば子孫繁栄間違いなし」と言い残す。信通は基晴の言葉に従って家臣18家族を伴って小波渡を開村した。
庄内漁法の先駆け
小波渡は主産業としての漁業の基礎を固め、領主に魚を上納するまでになった。1710(宝永7)年には漁船が34隻に増え、漁師らは水田を買って船着場を増設するほど漁業に力を入れていた。庄内沿岸部では農地が少なく、農業より漁業に重きが置かれていたためで、漁村の年貢高も農村より高かった。
小波渡沖には好漁場があった。1806(文化3)年、幕府に提出した記録では小波渡村の戸数は88軒、41隻の漁船があって活気があった。10月から2月はタラ、サメ、タイ、マガレイ▽3、4月はヒラメ、カナガシラ▽5、6月はコダイ▽6月から8月はサバ、イカ漁などのほか、ワカメ類も採っていて、漁業の先進地となった小波渡から漁具・漁法が庄内浜に広がった。
このころの庄内浜漁船数は800隻余。6人乗りから磯見船まで大小の船による漁で活気が出始めていた。
北洋漁業発祥の地
小波渡は出稼ぎ漁業でも庄内浜の先駆けになった。1865(慶応元)年ごろには北海道・留萌沖の漁場まで船で出掛けてタラ、ニシンなどを捕って戻り、酒田や加茂港で水揚げするという、当時としては大胆な出稼ぎをし、利益も大きかった。
長期間の出稼ぎには資金も必要で、漁師22人が連名で大庄屋への借用証書を書き、250両の支度金を借りて出掛けた記録もある。
船を仕立てた出稼ぎは昭和になっても続き、小堅文化財愛好会長の志田孝士さん(81)は子供のころに見た出稼ぎの出港風景を、「現在の小型底引き網漁船より少し小さい発動機船に7、8人が乗り込み浜の50メートル沖に停泊している船にハシケでコメ、みそなどの食料を積み込んで、大漁旗をなびかせて漁場に向かった。子供心に未知の所によくいくものだと思ったし、出稼ぎ漁師の家は立派だった」と当時を話す。
小波渡には「北洋漁業発祥の地」碑がある。
(論説委員・粕谷昭二)
庄内浜最初の漁村になった鶴岡市小波渡。前海は好漁場だった(左) 気比の原生林を通ってわき出る「オミジャ」。奥の高い所に「開村祖之碑」がある