2009年(平成21年) 4月1日(水)付紙面より
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従属を断ち、販路開く
藩主の魚を調達
あばの歴史は藩政時代にさかのぼる。庄内藩・酒井忠勝が信州松代(長野県)から鶴岡に入部した1622(元和8)年ごろまでの鶴岡の町並みは、侍と町衆が混在して住んでいた。現在の町並みの原型が作られたのは庄内藩になってから。
人口が増えるにつれて魚の需要が高まり、城下には上肴町(現本町三丁目)と下肴町(同一丁目)が置かれ、魚屋による魚の集荷と販売が始まった。
このころの魚屋は両肴町に合わせて15軒あり、庄内藩は両肴町に各1軒の「御用肴屋(ごようさかなや)」を置いた。魚好きの藩主のため、御用肴屋に一般の魚屋から鮮度のいい上物を選んで納めさせる、藩の都合からでもあった。
藩主の魚好きの一端をうかがわせるエピソードがある。『湯野浜の歴史』(湯野浜地区住民会)によると、1865(慶応元)年8月、家族を伴って湯野浜に湯治に来た藩主が、浜でイワシ地引網漁を見学。後日、藩主の希望で漁師2人が城下の御隠殿(藩主の隠居所)まで急いで届けたという。年代からして藩主は第13代忠篤(ただずみ)。
魚屋は藩の許可を得て商売することが認められ、現在の税金に当たる「役銭(やくせん)」を納めた。藩に納める魚は役銭と似通った意味を持っていたといわれる。
触れ売り始まる
交通手段が発達していなかったものの、海が近い城下は魚の入手が容易だった。1671(寛文11)年、藩は両肴町のほか一日市町(現・本町二丁目)▽三日町(現・本町一丁目、昭和町)▽荒町(現・山王町)の「市の日」でも自由に魚を売ることを許可した。消費増に歩を合わせて漁業技術も進歩し、庄内浜一帯の水揚げ量が増えたためだ。
魚屋は鶴岡市由良、小波渡などの漁師からの仕入れと販売を取り仕切り、1844(天保15)年の魚屋は上肴町12軒、下肴町7軒。あばの始まりとなる、触れ売りの女性が34人いた。しかし女性たちは魚屋の息がかかった使用人で、今のように自由気ままな売り方ではなかった。
魚屋の始まりになった上肴町は、町名変更で住居表示からなくなったが、市教育委員会設置の旧町名標柱と、地元商店会が設置した街路灯の「上肴町通り」の標記が、往時の名残りを伝えている。
魚屋からの自立
魚屋は需要の増加に対応し、店の利益を確保するためより多くの漁師を仕入れ先として傘下に持つ必要があった。漁師側も不漁の時や船、魚網の修繕で魚屋から資金援助を受けることがあり、こうした関係は双方にとって好都合だった。
当時、漁村の年貢もコメで納めることになっていたが、漁獲量見合いだけでなく海藻類の分も年貢に加算されたことで、年貢の実額は農村部より高額だった。漁師らは年貢を納めるため魚屋に借金することもあり、その返済などで暮らしは一向に楽にならなかった。
漁師は地域内で自家用の魚を売り歩くことは自由だった。しかし、互恵関係に見える双方の関係は漁師に不利が多く、自家用のうち特に鮮度のいい魚を「食(か)ネデ、イラエロバヤ(食べないではいられない)」と、魚屋との従属関係を断ち切るかのように触れ売り範囲を次第に城下の方まで拡大して行った。
この浜の人々のパワーが浜のあばの発祥につながった。
(論説委員・粕谷昭二)
「今日は何あんだろ」。戸口での行商風景は何十年来変わらない(鶴岡市本町三丁目)(左) 藩政時代の「上肴町」の名残りをとどめ、ひっそりと立つ旧町名標柱(鶴岡市本町三丁目)