2009年(平成21年) 6月17日(水)付紙面より
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加茂坂トンネルが開通
日通し物
加茂辺りでは昔、高館山を越えた平野部の鶴岡方面を「山陰」と呼んだ。酒田港に次ぐ船の出入りが多い加茂港のにぎわいぶりが伝わってくる呼称だ。
加茂港では明治半ばまで船問屋を中心に魚仲買人の五十集(いさば)衆、船から岸壁や倉庫に荷を運ぶ丁持(ちょうも)ち、加茂坂越えで魚を運ぶ背負子(しょいこ)と呼ばれる担ぎ屋によって流通が分担されていた。背負子にとっての難所の加茂坂越えは、あばにとっても難所だった。
それでも早朝に浜から運ばれた魚は鮮度が良く、「日通(ひどお)し(その日もの)」として値も高かった。加茂や由良から重い荷を担いでの山越えはつらい仕事だったが、あばたちは触れかごを担ぎ、平地では荷車を引いて城下を目指した。
加茂坂越えの道は、藩政時代に鉄門海和尚が開削。その遺志を鉄竜海和尚が受け継いで改良したが、大量輸送には本格的なトンネルを開くことはごく当然の発想だった。
背負子が反対陳情
加茂坂トンネルの完成は1886(明治19)年。長さ約300メートル。荷車での大量輸送は商売の拡大を狙う魚屋や仲買人にとっては願ってもないことだったが、荷運びの手間賃で生計を支えている背負子には死活問題だった。
背負子の暮らしは地主や魚問屋らの、「親方」とのつながりで成り立っていた。春から秋の船の出入りが盛んな季節は手間賃収入で生活できたが、仕事が途絶える冬は親方から越冬資金を借り、春からの仕事で借金を返済した。
トンネルができれば親方とのつながりも失われる。建設に反対する背負子と丁持ちは1881(明治14)年ごろ、現在は重要文化財になっている「旧西田川郡役所」に大挙して押しかけ、郡長に建設反対を陳情している。根強い反対から加茂坂トンネルは計画から84(明治17)年の着工まで7年もかかった。
多少の資力があり、馬車を買って輸送業に転業する背負子もいたが、大方は収入源を絶たれた。「加茂港史」(加茂郷土史編纂委員会)には、「ある背負子の、家計簿に似た帳簿の余白に〈まんぶとほる、くるまかへず、うまかへず、ばしゃにあとおしいらず(隧道が通る、車買えず、馬買えず、馬車に後押しいらず)〉と、拙(おさ)ない文字での書き込みがあった。仕事を失うだろう背負子が、覚えたての字で明日への不安を懸命に書きつづったらしい」とある。背負子の心情を代弁する記述だった。越冬資金を借りられずに出稼ぎに転ずる人がこのころから多くなった。
加茂臨港線も陳情
羽越本線は1924(大正13)年に全線開通する。これを前に西田川郡会は17(大正6)年2月、加茂臨港線の建設を関係機関に求める建議を可決した。沿線の大山駅から分岐し、加茂港に通じる鉄道敷設を熱望したものだ。鉄道開通で鶴岡駅周辺の経済が隆盛しているのに、大山から加茂に通じる街道はその兆候がなく、危機感を持ったためだ。
加茂臨港線は実現しなかったが、加茂坂トンネルはその後経済の動脈になった。
(論説委員・粕谷昭二)
明治19年に完成当時の加茂坂トンネル。両方の入口上部には竜と虎の像が取り付けられた=鶴岡市郷土資料館提供(左) 早朝、魚箱を確かめながら忙しく仕入れするあばたち=鶴岡市末広町で
2009年(平成21年) 6月17日(水)付紙面より
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酒田市北千日堂前の特別養護老人ホーム「かたばみ荘」(中村祥一施設長)に16日、同市浜中の「庄内馬事公苑」(五十嵐正信代表)所属の馬3頭が“慰問”、乗馬体験などを通しお年寄りが馬との触れ合いを楽しんだ。
同公苑は、市内でインテリア関連販売を手掛ける五十嵐代表が、馬との触れ合いを通じて心身の安らぎを得る「ホースセラピー」を中心とした乗馬体験の場として2007年に開設。一般の家族連れや庄内各地の高齢者福祉施設の利用者らが訪れている。
今回は、馬との触れ合いを通し施設利用のお年寄りから心身機能・生活意欲の向上を図ってもらおうと、同公苑と同施設が企画。出張によるホースセラピー活動は初めて。
この日は入所者やショートステイ利用者ら約70人が参加した。お年寄りたちは童謡「お馬の親子」を歌って馬の到着を歓迎。その後、スタッフが引く馬に乗り、施設裏庭を1周。周囲から「かっこいいぞ」などの声援が飛び交い、満面の笑顔を浮かべていた。また、馬にニンジンやリンゴを食べさせる、楽しいひと時を過ごした。
「昔は農作業の時に馬さ、乗たもんだ」という男性参加者は「乗馬は30年ぶり。やっぱり良いもんだの」と笑顔で話していた。五十嵐代表は「体力的に公苑に来るのが難しいという人たちのため、今後も出張による活動を継続していきたい」と話していた。
お年寄りが乗馬体験などを通し馬と触れ合った
2009年(平成21年) 6月17日(水)付紙面より
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庄内の夏の食卓に欠かせない味として親しまれている「なんぜんじ」作りが、各豆腐店で盛んに行われている。
庄内のなんぜんじ豆腐は半球状の形をしているのが特徴で、一説によると、酒田市の南禅寺屋が元祖。南禅寺屋の祖先がお伊勢参りの途中で病気になり、路銀を使い果たしたため、京都の南禅寺に住み込みで働いた。そこで丸く柔らかい豆腐に出合い、作り方を学んだ後に庄内で「南禅寺豆腐」として売り始めたと言われる。
鶴岡市宝町の創業140年の老舗・松浦豆腐店(佐藤豊和店主)では、先月20日ごろからなんぜんじを作り始めた。7、8月ごろに最盛期を迎え、9月中旬ごろまで製造が続くという。
佐藤さんの妻・利栄さんは「丸い形を保ち、柔らかくてのどごしの良いものにこだわっているため、一つ一つ手作りしている。暑くになるにつれて忙しくなる」と話しながら、冷水に浸したなんぜんじを手で丁寧にすくい上げ、袋詰めしていた。
庄内の夏の味覚・なんぜんじ作りが盛んに行われている=16日、鶴岡市の松浦豆腐店