2015年(平成27年) 8月6日(木)付紙面より
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日本のユーモア小説の先駆けでその第一人者として知られ、明治から昭和にかけて活躍した鶴岡市ゆかりの作家・佐々木邦さん(1883―1964年)の親族が5日、佐々木さんが戦時中に疎開していた同市大東町の本鏡寺(藤本典行住職)を訪れた。戦後70年の節目に、同寺に残る句碑や絵画を見学し、佐々木さんの鶴岡での足跡に思いをはせ、疎開先で亡くなった同市出身の妻・小雪さんの霊を弔った。
佐々木さんは静岡県出身。英文学者として明治学院大教授などを務めた。学生時代から欧米のユーモア作家に影響され、多くの作品を残した。サラリーマン家庭の家族的なユーモアをテーマにした作品が多く、18作品は映画化され、62年に紫綬褒章受章。日本のユーモア文学の発展に尽くした。「愚弟賢兄」「地に爪跡を残すもの」「求婚三銃士」などの作品がある。
マンガ「サザエさん」の作者・長谷川町子さん、作家の向田邦子さんらが影響を受けたとされ、鶴岡市出身の作家・丸谷才一さんは作品の中で佐々木さんを「ユーモア小説の第一人者。探偵小説における江戸川乱歩のやうな存在」と記している。
佐々木さんは終戦直前の1945(昭和20)年7月、自宅があった東京都渋谷区から、妻の小雪さん(旧姓服部)の知人を頼り旧温海町五十川の民家に疎開。終戦後に本鏡寺に移り、48年9月まで滞在した。地元や同様に疎開していた多くの文化人らと交流し、県立農林専門学校(現山形大農学部)で英語講師も務めた。小雪さんは47年12月、62歳で亡くなった。鶴岡について佐々木さんは戦後、「鶴岡の方々のこまやかな人情味は今でも忘れられず、永住してもよいと思ったほどです」と語っている。
こうした佐々木さんの足跡を訪ねたのは、孫の柴本順子さん(77)=東京都三鷹市=と夫の昌重さん(78)、三女の純佳さん(43)の3人。順子さんは「戦争や疎開を含めた祖父母のことについて、今、私たちの世代が見て調べて、しっかりと子供たちの世代に伝えていかなければと思い、初めて鶴岡を訪れました」と話し、昌重さんは「邦さんが疎開してちょうど70年。節目の年に訪れることになったのも何かの縁で、巡り合わせです」と話した。
本鏡寺の境内には、佐々木さんの「見知り顔の万才老いて来りけり」の句碑があり、疎開当時に描いたとみられる鳥の絵も残る。順子さんらによると、疎開時に佐々木さんは「われもまた出羽の米くういなごかな」の句を詠んだ。
順子さんは「出羽の米を食べるという句には、大切なお米をいただくことの申し訳なさとありがたさ、鶴岡の方々の温かい人情が表されていると思う。鶴岡を訪れることができて、本当に良かった」と、祖父母への思いをはせながら語った。
佐々木さんについては、没後50年の昨年、孫で順子さんのいとこの松井和男さんが「朗らかに笑え ユーモア小説のパイオニア佐々木邦とその時代」(講談社)を刊行している。