2017年(平成29年) 10月9日(月)付紙面より
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鶴岡市東荒屋出身の反戦言語学者で世界共通言語の使用を提唱したエスペランティスト、斎藤秀一(さいとう・ひでかつ、1908―40年)について学ぶ講演会「秀一の生きた時代 秀一の夢見た世界」が7日、鶴岡市の櫛引公民館で開かれ、日本文学が専攻の名古屋工業大のジョセフ・エサティエ准教授らの講演を通し、秀一の生きた時代や業績に理解を深めた。
地元で秀一の顕彰活動などを行っている「斎藤秀一を考える会」が主催。市民ら約80人が参加した。「危険なローマ字運動:暗い1930年代に日本語のローマ字使用を主張した斎藤秀一の夢」の論文を発表しているエサティエさんと、今夏に「特高に奪われた青春―エスペランティスト 斎藤秀一の悲劇」を出版した長井市出身の政治学博士・工藤美知尋さんの2人がそれぞれ講演した。
このうちエサティエさんは、言語差別という言葉が秀一に興味を持ったきっかけと話し、「日本が日中戦争に向かっている暗い時代に、戦争をやめよう、差別、暴力をやめようと社会の流れと反対に歩いた。知識人がローマ字を嫌ったのは自分たちの教養が崩れるため。秀一はエリートにとって危険な人で、民衆のために戦った人だ」などと話した。
秀一は寺の長男として生まれ、駒澤大卒業後に大泉村(旧朝日村、現鶴岡市)で小学校教員となり、児童や青年たちにローマ字を教えた。日本プロレタリア作家同盟の運動に参加するなどし、「赤化教員」として検挙され職を失ったが、民衆の文化向上には世界共通語のエスペラント語やローマ字が必要として、日本帝国主義を批判。特高による3度目の検挙で服役し、肺結核で1940年9月5日に32歳で死去した。